おニャン子クラブの会員番号15番として知られ、4人組ユニット「ニャンギラス」ではメインボーカルも務めた立見里歌さん。
テレビでは個性的なキャラクターを見せていましたが、その少し前まで過ごしていたのは、ごく普通の学生生活でした。しかも、芸能界へ進むために養成所へ通ったり、自分から芸能事務所へ応募したりしたわけではありません。
大学のキャンパスコンテストへの出場をきっかけに『オールナイトフジ』へ出演し、そこからおニャン子クラブへ。いくつもの偶然が重なってアイドルへの道が開いていきました。
その一方で、忙しくなってからも立見さんの中では「学生」が大切な軸でした。若い頃の姿を追っていくと、テレビで見せていた印象とは少し違う学生時代が見えてきます。
歌手になりたいなぁ~と、憧れた時期もありました。
出典:立見里歌オフィシャルサイト「人生の転機になった『おニャン子クラブ』」(2023年1月6日)
立見里歌の若い頃は?地層や恐竜が好きだった少女時代
立見里歌さんは東京都出身。芸能活動を始めたのは大学生になってからですが、子どものころから歌やテレビと無縁だったわけではありません。
本人によると、小学生や中学生のころには、休み時間に友人とピンク・レディーの歌を歌ったり、キャンディーズの振りを踊ったりしていました。一時期は歌手に憧れたこともあったそうです。
ただし、そこから一直線に芸能界を目指したわけではありません。後年本人は、実際にテレビへ出演するようになった大学時代には、歌手への思いを強く持ったまま進んでいたわけではなかったと振り返っています。
少女時代には、歌とはまったく違うものにも夢中になっていました。地層や恐竜が好きで、土器を掘りに行くことにもわくわくしていたといいます。
小さい時から地層や恐竜が好きで
出典:立見里歌オフィシャルサイト「テスト前はマジで頑張りました」(2023年1月26日)
小学生のころには、自宅の水槽へ水と土を入れ、陸と海に見立てて「生物が発生するかもしれない」と試したこともありました。海外の実験を紹介した記事を読んで、自分でもまねしてみたそうです。
休み時間には友人とアイドルの歌や踊りを楽しみ、自宅では水槽を使って実験をする。立見さんの少女時代には、芸能界とは別の好奇心もありました。
立見里歌の家族構成は?父親・母親・弟との家庭
立見さんは、後年のインタビューや公式ブログで父親、母親、弟について語っています。芸能界へ入る前の家庭を知るうえで印象的なのが、両親についての本人の回想です。
『オールナイトフジ』へ出演するようになったころ、両親は厳しかったと本人は振り返っています。深夜番組だった『オールナイトフジ』自体も、それまで自宅では見たことがなかったそうです。
父親については、本人が東海大学のインタビューで「破天荒な人だった」と表現しています。自分は将来、安定した生活を送りたいという思いがあり、それが大学卒業後に一般企業へ就職する進路にもつながっていました。
別の公式ブログでは、父親は生前あまり多くを話さず、厳しい面のある人だったとも振り返っています。幼いころから父親とまったく同じ生き方をするのではなく、自分自身で将来を決めたいという意識があったようです。
母親は熊本県出身。家庭では母親の方言を聞いて育ったため、立見さん自身は標準語だと思っていた言葉をテレビで使い、それが番組内で目立ったこともあったといいます。
また、本人の公式ブログには弟も登場しています。後年、立見さんは自分と弟が父親似で生まれたと綴っており、父・母・本人・弟という実家の家族関係を本人の言葉から確認できます。
立見さんには後年、息子も誕生しています。本人の公式プロフィールでは、結婚・出産後に仕事を離れて子育てに専念した時期があり、現在は息子が社会人になっていることも公表されています。
立見里歌の学歴は?東海大学付属相模高校から東海大学へ
立見さんの学生時代を追うと、テレビで見せていたキャラクターとはかなり違う一面があります。高校は東海大学付属相模高等学校へ進み、その後、東海大学政治経済学部政治学科へ進学しました。
高校受験では猛勉強し特待生に
東海大学付属相模高校を受験するとき、担任からは別の学校を勧められたと立見さんは語っています。当時の成績では厳しいとみられていたためでした。
ところが、そこで進路を変えるのではなく受験へ向けて勉強を続けます。本人のインタビューでは、結果的に2番の成績で合格し、特待生になったと明かしています。
猛勉強をして結局2番で合格し特待生になりました。
出典:日刊スゴい人!「おニャン子クラブ会員番号15番のスゴい人!」(2017年10月17日)
高校では先生から指名され、3年間クラス委員を務めました。スポーツが盛んな学校で男子生徒も多い中、クラスをまとめる役割を任されていたと本人は振り返っています。
東海大学では政治経済学部政治学科を選択
高校卒業後は東海大学へ進みました。所属したのは政治経済学部政治学科です。
本人の公式サイトによると、もともとは法律や考古学にも興味がありました。子どものころから地層や恐竜が好きだったため、考古学を学ぶことにも関心を持っていたそうです。
最終的に政治学科を選びましたが、大学の試験は簡単ではありませんでした。丸暗記だけでは対応できない記述式の問題もあり、過去問を集めたり、成績の良い友人のノートをコピーさせてもらったりして対策していました。
難関科目で一度単位を落としたこともあります。その経験から、次は必ず単位を取ろうと勉強し、芸能活動が忙しくなってからも学業を続けました。
大学在学中におニャン子クラブの活動が重なっても、試験を軽く扱うことはありませんでした。本人の公式サイトには、試験期間と大阪でのコンサートが重なり、コンサートを休んで勉強したというエピソードも残されています。
大学1年のキャンパスコンテストが芸能界への入口に
立見さんと芸能界がつながった最初の大きな出来事は、東海大学へ入ってから起きました。
大学1年のとき、キャンパスで先輩たちから「アイドルキャンパスコンテスト」へ出るよう頼まれます。当時、政治経済学部には女子学生が少なく、各学部から代表者を出す中で立見さんに声がかかったといいます。
本人はコンテストの意味もよく分からないまま出場したと振り返っています。ところが結果は優勝。ミス東海大学となりました。
審査では、いかにもアイドルらしい歌や特技だけで勝負したわけではありません。本人へのインタビューでは、豆乳の早飲みや腕相撲といった競技にも参加したことが語られています。
さらに驚くのは、その翌日です。ミス東海大学としてフジテレビの深夜番組『オールナイトフジ』へ出演することになりました。
当初は一度出演するだけのつもりでした。しかし、そのまま番組のレギュラーに選ばれ、オールナイターズとしてテレビへ継続的に出演する生活が始まります。
初めて収録へ向かった際、周囲の出演者が華やかな服装をしている中、立見さんはセーターとスカートという学生らしい格好だったと後年語っています。芸能界へ入る準備を整えていたわけではなかったことが伝わる場面です。
番組に出るようになると、母親から自然に身についた方言や、大食い、腕力といった思いがけない部分もテレビで取り上げられるようになりました。出演日が増え、ロケなどで週の多くを番組に使う生活へ変わっていきます。
テレビの仕事は突然始まりましたが、立見さん自身は将来の職業を芸能界一本に決めたわけではありませんでした。大学へ通いながら、その日その日の出演をこなしていた学生でもありました。
どんなときでも自分の本業は大学生だと思っていた
出典:東海大学「この人インタビュー 立見里歌さん」(公開日記載なし)
授業が終わるとテレビ局へ直行し、夕方には生放送へ出演する。そんな生活になっても、可能な限り大学へ通い、授業と試験を優先する姿勢は変えませんでした。
オールナイターズ卒業からおニャン子クラブ会員番号15番へ
『オールナイトフジ』での生活には区切りが訪れます。第一期オールナイターズとしての活動を終え、立見さんは一度テレビのレギュラーから離れました。
ところが、それから間もなくフジテレビ側から声がかかります。本人へのインタビューによると、プロデューサーから「フジテレビに来ない?」と連絡を受けて出向いたことが、おニャン子クラブへの入口になりました。
テレビ局へ着くとメイク室へ案内され、白い水着を着てオーディションを受ける流れになったそうです。自分で募集を見つけて申し込んだオーディションではありませんでした。
そして審査を通過。立見里歌さんは、おニャン子クラブの会員番号15番として『夕やけニャンニャン』へ出演することになります。
大学のコンテストへ頼まれて出場したことから始まり、『オールナイトフジ』へ呼ばれ、今度は番組終了後におニャン子クラブへ。立見さんの芸能界入りは、自分から芸能活動の入口を探し続けた形とはかなり違っていました。
おニャン子クラブでは高校生のメンバーが多く、大学生だった立見さんにとってテレビ局での時間は大学とはまったく違う空気でした。本人は後年、メンバーたちがきょうだいのような距離感で飛び込んでくる生活だったと振り返っています。
平日の夕方に『夕やけニャンニャン』へ出演し、放送後も雑誌取材、テレビ収録、レコーディング、コンサートのリハーサルなどが続きました。帰宅が深夜になることもありました。
それでも翌日には大学があります。芸能活動と学生生活が完全に分かれていたわけではなく、授業を終えてテレビ局へ向かう日々が続きました。
『セーラー服を脱がさないで』でも大学の授業を優先
おニャン子クラブのレコードデビューが決まると、メインボーカルを選ぶための歌の審査も行われました。
立見さんが選んだのは、小林麻美さんの『雨音はショパンの調べ』。本人は高音がうまく出なかったものの、大人っぽく歌えたつもりだったと公式サイトで振り返っています。
メインボーカルには選ばれませんでしたが、立見さんもおニャン子クラブの一員として『セーラー服を脱がさないで』のレコーディングに参加します。
新曲のタイトルと歌詞を初めて見たときには、かなり驚いたそうです。当時は番組自体も始まったばかりで、曲が大きなヒットになるとはメンバーも予想していませんでした。
これ誰が買うの?誰も買わないよねぇ
出典:立見里歌オフィシャルサイト「初めてのレコーディング、売れないと思っていた『セーラー服を脱がさないで』」(2023年3月7日)
1985年7月4日には池袋サンシャインシティで新曲発表会が予定されていました。ところが立見さんは大学の授業を優先し、そのイベントには参加していません。
会場には予想を超える人が集まり、イベントは中止になるほどでした。翌7月5日に『セーラー服を脱がさないで』が発売され、おニャン子クラブの活動は一気に忙しくなっていきます。
立見里歌さんはアイドル活動が本格化してからも大学へ通い続け、試験期間には芸能活動より勉強を優先したことを本人公式サイトで明かしています。
ニャンギラス結成で「私は里歌ちゃん」のメインボーカルに
おニャン子クラブの中で、立見さんがより前面に出ることになったのが、樹原亜紀さん、名越美香さん、白石麻子さんと組んだ4人組ユニット「ニャンギラス」です。
ニャンギラスのデビュー曲は『私は里歌ちゃん』。タイトル通り、立見さん自身の名前を前面に出した曲でした。
本人によると、制作前に秋元康さんからどんな曲を歌いたいか聞かれた際には、中森明菜さんが好きだったことから『DESIRE -情熱-』のような歌を希望したそうです。
ところが、実際に完成したのは『私は里歌ちゃん』でした。本人の希望とは大きく違う、立見さんのキャラクターをそのまま題材にしたような楽曲です。
あまりの歌の下手さに驚愕しまして。
出典:Smart FLASH「立見里歌がいま語る『ニャンギラスはユニット結成時も紛糾!』」(2017年4月21日)
ニャンギラスは色物的な企画として見られることもあり、結成時にはメンバーの間でも戸惑いがあったと立見さんは後年明かしています。それでも『私は里歌ちゃん』はオリコン1位を獲得しました。
立見さんの公式ブログによれば、4月1日は『私は里歌ちゃん』の発売日であり、ニャンギラスのデビュー日でもあります。大学生だった立見さんは、ここでグループのメインボーカルとして歌番組にも出演する存在になりました。
一方で、ステージの外では大学の試験が待っていました。本人はニャンギラスのボーカルを務めながら、試験期間にコンサートを欠席したこともあります。
芸能界で活動を続けるのか、一般企業へ就職するのか。その答えも、立見さんの中では早くから決まっていました。父親とは違う安定した人生を自分で築きたいという思いから、卒業後は会社員になる進路を選んでいます。
卒業後にはレコード会社へ就職し、一度は芸能活動から離れました。その後さまざまな仕事を経験し、再びタレント活動やライブにも参加しています。
先輩に頼まれて出た大学のコンテストから、『オールナイトフジ』、そしておニャン子クラブへ。最初からアイドルへの進路を決めていたわけではない学生が、会員番号15番となり、やがて自分の名前が付いた曲でステージの中央に立ちました。
それでも立見さんにとって学生生活は最後まで別のものにはなりませんでした。テレビ局と大学を行き来した日々そのものが、立見里歌さんがおニャン子クラブの一員になるまでの原点でした。


























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