おニャン子クラブ会員番号7番として、1985年4月のごく短い期間に「夕やけニャンニャン」へ出演した友田麻美子さん。のちにオーダーメイドのバッグ制作を続け、2026年には会員番号2番だった榎田道子さんと「MM27@ミチ公マミ公」として音楽活動も始めています。
おニャン子クラブが大きなブームになる前に番組を離れたため、友田さんについては「若い頃はどんな人だったのか」「なぜ会員番号7番になったのか」が気になるところです。
芸能界への入口になったのは、自分で応募したアイドルオーディションではなく、友人から持ちかけられたテレビ特番への応募でした。
高校生活の途中でテレビの世界へ入り、1985年4月1日におニャン子クラブの最初期メンバーとなった友田さん。少女時代から、わずか数週間のおニャン子時代までを時系列でたどります。
友田麻美子は若い頃どんな少女だった?中学・高校時代
友田麻美子さんは1968年1月8日生まれ、東京都出身です。1985年春に「夕やけニャンニャン」へ登場した時は高校3年生でした。
当時の雑誌プロフィールを引用する資料には、好きな科目は美術、クラブ活動は演劇、趣味は電話と記されています。好きな色は淡いピンク、好きな食べ物にはケンタッキーフライドチキンを挙げていました。
自己紹介では、おしゃべりで周囲にうるさがられることもある、という調子で自分を表現しています。テレビで見せた大人びた雰囲気だけではなく、友人とよく話す高校生らしい一面もあったようです。
当時のプロフィールに残る高校生らしい好み
1985年当時のプロフィールには、得意なこととして英検4級、苦手な科目として英文法が挙げられています。資格として英語を勉強しながら、授業の英文法は好きではないというところも、妙に具体的です。
好きなタレントには石原真理子さん、目標とするタレントには片岡鶴太郎さんの名を挙げていました。歌手だけを見ていたのではなく、女優やお笑いの世界にも目が向いていたことが分かるプロフィールです。
初恋については幼稚園のころと答え、好きな男性のタイプは「さっぱりしている人」。好きなもの、学校の科目、友人とのおしゃべりまで、会員番号だけでは見えない高校生の輪郭が残っています。
アイドルだけを目指していたわけではなかった
友田さんが後年に語った若い頃の夢は、少し意外なものでした。好きだったのは漫才コンビ「ザ・ぼんち」。テレビに出るなら、歌手だけではなく笑いの世界にも関心があったのです。
「お笑いタレントになりたくて。」
出典:SmartFLASH「おニャン子を解雇された『友田麻美子』タバコ事件をいま語る」(2017年10月19日)
「オレたちひょうきん族」に出られるのでは、と期待したこともあったと振り返っています。美術や演劇が身近にあり、お笑いにも惹かれていた高校時代でした。
友田麻美子の家族構成は?両親との高校時代
友田さんの家族について、本人が公に語っている情報は多くありません。父親と母親はいずれも一般の方で、氏名や職業などは広く公表されていません。
2016年に放送された「爆報!THEフライデー」では、高校生の頃に両親が別居し、その後離婚したと紹介されました。ちょうどテレビ出演が始まった時期と家庭の変化が重なっていたことになります。
1985年4月の出来事のあとには、家庭でこんな場面もありました。友田さんは後年、両親の反応を笑いを交えながら振り返っています。
「親にもタバコを捨てられてしまいました(笑)」
出典:アサ芸プラス「戦後75年を彩った『あのいい女』は今!<おニャン子クラブ>タバコ解雇の友田麻美子はバッグデザイナーに」(2020年8月16日)
兄弟姉妹については、信頼できる公表情報が見当たりません。家族構成を必要以上に広げず、本人が実際に語っている両親との出来事を中心に見るのが自然です。
友田麻美子の学歴は?高校時代と美術を学んだ学校
友田さんは「夕やけニャンニャン」出演時に高校3年生でした。2016年のテレビ番組では美術を学ぶ学校に通っていたと紹介されていますが、正式な学校名を確実に裏付けられる公表資料は限られています。
学校名を推測するよりも確かなのは、美術が身近にあったことです。1985年当時の雑誌プロフィールでも好きな科目に美術を挙げ、クラブ活動は演劇としていました。のちにバッグを自分で作るようになる以前から、手を動かして表現することに親しんでいました。
高校時代の同級生だったとよた真帆
友田さんは2017年のインタビューで、のちに女優・モデルとして活動するとよた真帆さんを高校時代の同級生だったと話しています。とよたさんも高校在学中にモデル活動を始め、その後は美術を学んでいます。
「高校時代の同級生だったとよた真帆ちゃん」
出典:アサ芸プラス「甦る『アイドルグループ』黄金伝説(1)<直撃1>『おニャン子クラブ』友田麻美子」(2017年11月28日)
友田さんがバッグ制作を続けるようになってからは、とよたさんがオーダーしてくれることもあったそうです。高校時代の縁が、ずっと後まで続いていました。
友人の応募でオールナイトフジ女子高生SPへ
友田さんがテレビの世界へ入ったきっかけは、芸能事務所のオーディションを自分で探したことではありませんでした。先にあったのは、フジテレビの特番「オールナイトフジ女子高生SP」です。
その特番は、出演者を推薦した側にも賞品が用意されていたといいます。そこで友人が友田さんに声をかけました。
「応募していい?」
出典:アサ芸プラス「甦る『アイドルグループ』黄金伝説(1)<直撃1>『おニャン子クラブ』友田麻美子」(2017年11月28日)
友田さんはその話を受け、女子高生SPに出演します。ここで終わるはずだったテレビ出演は、番組側からレギュラー参加の話が出たことで次の段階へ進みました。
この経緯は、後年の大規模なアイドルオーディションとは少し違います。何段階もの審査を勝ち抜いてグループへ入ったのではなく、女子高生が出演する特番から、そのまま新しい夕方番組のレギュラーへ移る流れでした。
そのため友田さん自身の記憶でも、「アイドルを目指して応募した」という話より、友人から応募を持ちかけられた場面の方が入口としてはっきりしています。会員番号7番になるまでの出発点は、学校生活の延長にあった小さな誘いでした。
友人のひと言から始まったテレビ出演が、そのまま「夕やけニャンニャン」とおニャン子クラブにつながったのです。
当時の友田さんは高校3年生。お笑いにも関心があり、美術や演劇にも親しんでいた少女が、放課後のテレビ番組へ出ることになりました。
おニャン子クラブ会員番号7番になった高校3年の春
1985年4月1日、「夕やけニャンニャン」がスタートしました。友田さんは会員番号7番。奥田美香さん、榎田道子さん、吉野佳代子さん、新田恵利さん、中島美春さん、樹原亜紀さん、国生さゆりさん、名越美香さん、佐藤真由美さん、福永恵規さんらとともに最初期メンバーとして番組に入りました。
後年のテレビ報道では、新田恵利さんと並ぶセンター扱いだったと紹介されています。まだ「セーラー服を脱がさないで」が発売される前で、おニャン子クラブの立ち位置そのものが固まる前の時期です。
おニャン子クラブのデビューシングル発売は同年7月。友田さんが在籍した4月は、その大ヒットより前です。後から知られる「おニャン子クラブ」の完成形を体験したというより、番組とグループが動き始めた最初の数週間にいたメンバーでした。
会員番号7番という数字が今も友田さんを説明する言葉として残っているのは、この最初期に名前と顔が番組へ出ていたためです。活動期間の長さだけでは測れない、立ち上げ時期の存在でした。
生放送中に鼻血が出たことも
生放送ならではの出来事として、友田さんが今も覚えているのが鼻血です。番組中に鼻血が出てしまい、CM明けの最後のあいさつでは鼻を押さえながら上を向いて手を振ったといいます。
「私、鼻血体質なんですよ。」
出典:アサ芸プラス「甦る『アイドルグループ』黄金伝説(1)<直撃1>『おニャン子クラブ』友田麻美子」(2017年11月28日)
大きな伝説ではなく、テレビに出始めた高校生の慌ただしさが見える小さな昔話です。完成されたアイドルとして用意されたというより、生放送の中へそのまま放り込まれたような時期でした。
新田恵利や国生さゆりをどう見ていた?
友田さんは、新田恵利さんと国生さゆりさんについて、番組への取り組み方がとても真面目だったという印象を語っています。国生さんはすでに芸能事務所に所属しており、友田さんとはスタート地点も少し違っていました。
2016年に友田さんがテレビへ久しぶりに出演した際には、国生さんがその姿を見て涙を浮かべ、もう一度みんなで会いたいという思いを口にしています。数週間しか一緒に活動していなくても、最初期メンバーとして過ごした時間は残っていました。
友田麻美子がおニャン子クラブを離れるまで
番組が始まって間もない1985年4月、友田さんたちは生放送を終えたあと、新宿駅地下の喫茶店へ入りました。そこで未成年メンバーの喫煙をめぐる写真が撮影されます。
SmartFLASHの2019年インタビューで友田さんは、声をかけられて振り返った瞬間にシャッターを切られたと説明しています。撮影した人物はその場を離れ、友田さんたちはテレビ局へ事情を伝えました。
友田さんによれば、メンバー同士で番組帰りに店へ寄ること自体が珍しかったそうです。日常的にいつも同じ場所へ集まっていたところを撮られたのではなく、その日に何人かで喫茶店へ入ったことが、結果として大きな出来事になりました。
撮影されたあとも、すぐに番組から姿を消したわけではありません。掲載号が出るまで出演は続いていたため、友田さんは写真が記事になるのか分からない状態のまま、生放送へ出ていました。
「掲載号が発売されるまで、心臓バクバクでした。」
出典:SmartFLASH「幻のおニャン子メンバー『友田麻美子』喫煙事件の真相を語る」(2019年11月25日)
写真が掲載されるまでの間も番組出演は続きました。のちに記事が出ると謹慎となり、友田さんを含む5人が番組を離れることになります。
自分から「やめる」と伝えた
友田さんは2019年のインタビューで、問題の日はたまたまたばこを切らしていて、その場では吸っていなかったとも話しています。ただ、日常的には吸っていたため、自分だけ違うと主張する気持ちにはならなかったそうです。
謹慎を言い渡されたあと、友田さんは自分から「やめる」と申し出ました。
「もうグズグズするのは嫌だったんで。」
出典:SmartFLASH「幻のおニャン子メンバー『友田麻美子』喫煙事件の真相を語る」(2019年11月25日)
USENのメンバー記録では、友田さんの加入日は1985年4月1日、在籍終了日は4月25日。おニャン子クラブのデビュー曲「セーラー服を脱がさないで」が発売されるより前でした。
離れて少ししたころには、番組で着る予定だった初めての衣装が友田さんのもとへ届きました。しかし本人はその衣装を友人へあげたと、2017年のインタビューで明かしています。
番組の人気が大きくなっていく様子は、その後も見ていました。友田さんは名越美香さんなど仲のよかったメンバーとは時々会っていたと話しており、おニャン子クラブを離れたことで当時の人間関係まで一度に途切れたわけではありません。
本人の振り返りでは、離れた直後に強い未練を抱き続けていたという語り方でもありません。届いた衣装を友人へ渡したという行動も含め、テレビでの短い時間をいったん手放し、その後の生活へ進んでいった様子が見えます。
1985年には雑誌『an・an』のウール着こなしコンテストで準グランプリとなり、その後は事務所への所属やイベントコンパニオンの仕事も経験しました。20代後半から趣味でバッグを作り始め、作品が雑誌で紹介されたことをきっかけに注文が増えていきます。
バッグ作りを始めたのは27歳ごろ。最初からブランドの仕事として始めたのではなく、趣味で手を動かしていたところから続いていきました。黒田知永子さんが雑誌で作品を紹介したことで知られるようになり、オーダーが増えたと本人が語っています。
一人で制作するため一度に大量には作れず、自分のペースで続けてきた仕事です。高校時代に好きな科目として挙げていた美術と、ずっと後の手作りのバッグは、時期こそ離れていますが、どちらにも「自分の手で作る」という共通点があります。
手作業が好きだった高校時代から時間が流れ、バッグのデザインと制作が仕事になりました。2017年のインタビューでは、おニャン子として過ごした高3の春について、短いながらも今に残る記憶として語っています。
「楽しかった記憶として今も残っています。」
出典:アサ芸プラス「甦る『アイドルグループ』黄金伝説(1)<直撃1>『おニャン子クラブ』友田麻美子」(2017年11月28日)
そして2026年、友田さんは会員番号2番だった榎田道子さんと「MM27@ミチ公マミ公」を結成。「若気のイ・タ・リ」は2月21日に配信が始まり、41年前には届かなかったCDデビューへとつながりました。
MM27公式Xでは、2026年3月29日のライブについて「初めての外部イベント」と報告しています。高校3年の春に始まった短いテレビ出演から、長い時間を経て再びステージに立つ活動が始まりました。
会員番号7番として過ごしたのは1985年4月の短い期間でした。それでも友人の応募から始まった高3の春は、友田麻美子さん自身が後年「楽しかった」と振り返る時間として残り、2026年の新しい音楽活動にもつながっています。



























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