演歌歌手として長く活動を続ける城之内早苗さん。芸能界で最初に広く知られた姿は、フジテレビ「夕やけニャンニャン」から生まれたおニャン子クラブの会員番号17番でした。
ただ、アイドルになる前から城之内さんの身近にあったのは、ダンスやポップスではありません。母親について行った民謡の場と、小学生のころから親しんだ三味線でした。
中学生になると演歌の大会へ出場し、東京で歌のレッスンを受けるようになります。それでも本人が思い描いていた将来は、最初からアイドルや歌手一本だったわけではありません。
民謡と三味線を続けていた少女が、落ちると思って受けたオーディションをきっかけに、おニャン子クラブへ入り、やがて「あじさい橋」で演歌のソロデビューを迎えます。
城之内早苗の生い立ち!茨城県神栖市で育った少女時代
城之内早苗さんは1968年5月17日、茨城県神栖市に生まれました。現在の公式プロフィールにも出身地は神栖市と記載され、特技として「民謡・三味線」が挙げられています。
この二つは芸能活動を始めてから身につけたものではなく、子どものころから生活の中にあったものでした。本人の回想をたどると、最初のきっかけは母親です。
母について行った民謡の場で歌い始める
母親が近所の女性たちと一緒に民謡を習い始めたころ、城之内さんもその場について行きました。そこで大人たちのまねをして歌うと喜んでもらえたため、小学4年生から自分も民謡を習うようになったと振り返っています。
家で一人きりで歌の練習を始めたというより、母親の習い事について行き、大人たちの中で声を出したことが入口でした。歌うと周りが反応してくれるという経験が、少女時代の早い段階にあります。
小学生で三味線を習い船橋まで通った
一方で本人が強く興味を持ったのは、民謡だけではなく三味線でした。先生に教わるため、茨城から千葉県船橋市まで通うようになります。
「最初の自立です。」
出典:芸団協CPRA「vol.008 デビュー20周年をむかえて」(2007年5月2日)
小学生だった城之内さんにとって、先生のもとへ通うことは、家族から少し離れて自分で動く経験でもありました。後年になって本人がこの言葉で振り返っているのが、当時の感覚をよく伝えています。
女子プロレスラーに憧れた意外な夢
歌や三味線に親しんでいた一方、少女時代には女子プロレスラーに憧れた時期もありました。文化放送の番組では、ビューティ・ペアの「かけめぐる青春」を自ら選曲しています。
本人は、歌手としてのデビューより「リングデビュー」をしたかった時期があったと紹介されています。民謡を習う少女という一面だけでは収まらない、当時の興味の広さが見える昔話です。
城之内早苗の家族構成は?父親・母親との音楽エピソード
城之内さんの少女時代をたどると、父親と母親のどちらにも「歌」が出てきます。とくに母親は、本人が民謡を始める直接のきっかけになった存在でした。
家族について公に語られている昔話では、両親が歌を好きだったことや、民謡大会、東京での歌のレッスンに通わせてもらったことが明かされています。
母親と始めた民謡と家族で通った大会
小学4年生から本格的に民謡を始めた城之内さんは、その後さまざまな大会にも連れて行ってもらいました。さらに歌を学ぶため、茨城から東京へ通う時期もありました。
母親自身が民謡を習っていたため、子どもが突然「歌手になりたい」と言い出して始まった家庭ではありません。先に家庭の中に歌があり、その延長に城之内さん自身の民謡や三味線がありました。
歌好きの父親との子ども時代
父親も歌が好きで、結婚式などでは人前で歌いたがるタイプだったそうです。ただし城之内さんの記憶では、音程にはかなり独特なところがあったといいます。
父親が歌おうとすると、娘の城之内さんが代わりに歌う流れになることもありました。文化放送では「お父様が歌うのなら、私が歌うから!」というほどだった昔話が紹介されています。
民謡教室へ連れて行った母親と、人前で歌いたがる父親。家庭の中で歌を耳にしたり、自分が歌う場面が生まれたりする環境が続いていました。
寮生活を見送った母親の「忘れ物」
芸能活動が始まると、城之内さんは親元を離れて寮生活を送るようになります。後になって母親は、娘が実家へ帰ってきたときに「何か忘れ物をして帰らないかな」と思っていたことを明かしたそうです。
理由は、忘れ物があれば自分が届けに行けるから。急に忙しい芸能生活へ入った娘を送り出した母親側にも、もう少し世話をしたいという思いが残っていました。
城之内早苗の学歴は?中学時代から高校で芸能界入りするまで
学校名そのものより、城之内さんの学生時代には、のちの仕事へ直結する出来事がはっきり残っています。中学2年生の演歌の大会と、高校在学中のおニャン子クラブ加入です。
高校に通いながら芸能活動へ入ったため、合格後には学校生活や住む場所まで短期間で変わりました。学生生活と芸能生活の境目が一気に動いた時期です。
中学2年で「全日本演歌選手権」へ
中学2年生のとき、城之内さんは「全日本演歌選手権」に応募しました。この大会への参加をきっかけにスカウトされ、芸能界と接点を持つようになります。
ただし、この時点で本人が一直線に「プロ歌手になる」と考えていたわけではありません。民謡や三味線そのものを続け、その技術を教える側になる将来も思い描いていました。
「歌手になりたいとは思ってなくて」
出典:芸団協CPRA「vol.008 デビュー20周年をむかえて」(2007年5月2日)
学生時代には、茨城から東京へ歌のレッスンに通う経験もありました。少女時代から続けてきた民謡や三味線とは別に、仕事として歌う世界が少しずつ近づいていきます。
高校時代に「夕やけニャンニャン」のオーディションへ
高校在学中の1985年、レコード会社側から「夕やけニャンニャン」のオーディションを勧められます。本人の感覚では、本命の進路というより、経験や勉強になるという位置づけでした。
それまで城之内さんが取り組んできたのは民謡や演歌です。若い女性たちが並び、歌だけでなくバラエティーやダンスにも関わる番組の空気は、それまで知っていた世界とはかなり違っていました。
合格後は転校と寮生活が始まった
予想外の合格後、城之内さんの日常は急に忙しくなります。高校生だったため学校の転校が必要になり、親元を離れた生活も始まりました。
「転校をしなければならなかったり、バタバタで入らせていただいた」
出典:ラジオ関西「元おニャン子の演歌歌手・城之内早苗 人生で最もつらかった『結婚のきっかけになった愛犬との別れ』」(2023年9月20日)
オーディションに出る前から入念にアイドル生活を準備していたのではなく、合格してから学校と住まいの環境まで動き出しました。母親が後年「忘れ物をしてくれれば」と振り返ったのも、この寮生活のころです。
城之内早苗がおニャン子クラブに入ったきっかけ
1985年6月、城之内さんは「夕やけニャンニャン」のオーディションに合格しました。おニャン子クラブでは会員番号17番となり、アイドルとしての活動が始まります。
本人は演歌を学んでいたため、最初から「おニャン子クラブに入りたい」と強く希望して受験したわけではありません。勧められて受けたオーディションが、進路を大きく変えることになりました。
河合その子と東京タワーに上ったオーディションの日
オーディションの日、同じく参加していた河合その子さんと城之内さんは、自分たちは受からないだろうと話していました。これきり会わないかもしれないと思い、記念に二人で東京タワーへ上ってから別れます。
「私たちは絶対にうからないよね。」
出典:芸団協CPRA「vol.008 デビュー20周年をむかえて」(2007年5月2日)
ところが結果は二人とも合格。その後、寮で再会して互いに驚いたと城之内さんは話しています。オーディションを受ける前の予想とは逆の結果になりました。
「もう会えない」と思って東京タワーに上った二人が、合格後には同じ芸能生活の中で顔を合わせることになったのです。
会員番号17番で加入しダンスに苦戦
おニャン子クラブに入ると、城之内さんにはそれまでほとんど経験のなかったダンスが待っていました。民謡や演歌では必要なかった振り付けを覚えなければならず、レッスンで居残りになることもありました。
「すごく抵抗があったんです。」
出典:芸団協CPRA「vol.008 デビュー20周年をむかえて」(2007年5月2日)
歌唱面でも、身につけてきた演歌の歌い方とアイドル曲では求められるものが違いました。本人は後年、おニャン子の楽曲を録音している最中に「コブシが回っている」と注意された出来事も語っています。
それまで積み重ねたものを捨てたのではありません。民謡や演歌の歌い方を持ったまま、そこへアイドルのダンスやグループ活動という新しい要素が一気に加わりました。
所属事務所の公式YouTubeでは、生稲晃子さんと「早苗と晃子の佐吉へようこそ!!」を公開し、おニャン子時代の話を本人たちが振り返っています。
年月を経ても元メンバーとのつながりは続き、本人公式Xには2021年、生稲さんの店「佐吉」を訪れた投稿も残っています。
民謡仕込みの歌がソロへの道につながる
グループの中ではアイドルとして活動しながらも、城之内さんの中から演歌が消えたわけではありません。公式プロフィールにも、おニャン子クラブ在籍中から演歌志望が強かったことが記されています。
踊ることには戸惑いがあり、歌い方にもアイドル曲との違いがありました。それでも会員番号17番として活動を続ける中で、本人がもともと続けてきた歌の方向を生かす話が動き始めます。
城之内早苗「あじさい橋」へ!おニャン子時代の演歌ソロデビュー
おニャン子クラブ加入の翌年、城之内さんにソロデビューの話が伝えられました。選ばれたのは、それまでの歩みと重なる演歌でした。
1986年6月11日に発売された曲が「あじさい橋」です。おニャン子クラブのメンバーとして活動しながら、演歌歌手として一人で歌う場が始まりました。
突然告げられたソロデビュー
ダンスのレッスンで居残りをし、この先どうなるのだろうと思っていた時期に、スタッフから次のデビューを告げられました。本人にとっては、十分な自信をつけてから迎えた話ではありませんでした。
「すごく不安でした。」
出典:芸団協CPRA「vol.008 デビュー20周年をむかえて」(2007年5月2日)
民謡や三味線を続け、中学時代には演歌の大会へ出ていた城之内さんにとって、演歌そのものは知らない世界ではありません。それでも「自分の名前でレコードを出す」ことへの不安は別のものでした。
1986年6月11日に「あじさい橋」でソロデビュー
「あじさい橋」は1986年6月11日、CBS・ソニーから発売されました。演歌作品ながらチャート初登場1位となり、おニャン子クラブの中でも独特の立ち位置を持つソロ活動になりました。
グループでは若いメンバーたちとアイドル曲を歌い、自分のソロでは演歌を歌う。少女時代から続けてきた民謡や三味線の経験が、アイドル加入後に再び本人の前へ戻ってきた形です。
後年のインタビューでは、演歌の現場へ行けば「アイドル」、アイドルの現場へ行けば「演歌」と見られ、どちらに自分を置けばいいのか戸惑う時期もあったと振り返っています。
浴衣姿で「夕やけニャンニャン」に初披露
ソロデビューから2日後の1986年6月13日、「夕やけニャンニャン」で「あじさい橋」を初めて歌いました。当時オーディションに参加していた生稲晃子さんは、ステージ袖からその姿を見ていたと後年語っています。
生稲さんの記憶に残っていたのは、浴衣姿で歌う城之内さんでした。普段のおニャン子クラブの印象とは違い、大人っぽく見えたと振り返っています。
母親について民謡の場へ行き、三味線を抱えて船橋まで通った少女は、落ちると思っていたアイドルのオーディションを経て、今度は一人で演歌を歌うステージに立ちました。
「あじさい橋」は、城之内早苗さんが現在まで歌い続ける代表曲の一つです。その出発点をさかのぼると、おニャン子クラブより前の家庭の歌、民謡、三味線へとつながっています。



























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