2025年7月5日、東京・世田谷区民会館で「おニャン子クラブ 結成40周年コンサート」が開かれました。「セーラー服を脱がさないで」の発売からちょうど40年。ステージには、会員番号6番だった樹原亜紀さんの姿もありました。
樹原さんはこの日のために、暮らしているオランダから日本へ戻ってきています。おニャン子クラブのステージに立つのは、本人によれば30数年ぶりでした。
このコンサートのためだけに、オランダから帰ってきました。
出典:SmartFLASH「【おニャン子クラブ結成40周年】大学教授になったレジェンドらが集結、ヒット曲に会場総立ちで“萌え”爆発!」(2025年7月9日)
会場へ戻ってきたのは、かつて「夕やけニャンニャン」の初回放送から画面に映っていた初期メンバーの一人です。
ところが40年前の樹原亜紀さんは、最初からアイドルになることを目指していた少女ではありませんでした。
本人が後年明かした、おニャン子クラブ加入前の肩書きは「モデル」。芸能の仕事にはすでに触れていたものの、本人の気持ちはアイドルとは別の方向を向いていました。
神奈川県で生まれた少女がモデル活動を経て、1985年4月1日に突然「会員番号6番」となり、数カ月後にはレコードを出すグループの一員になるまで。樹原亜紀さんの原点を、残されている本人の言葉や当時の記録からたどります。
樹原亜紀は昔どんな少女だった?モデル活動をしていた高校時代
樹原亜紀さんは1969年3月30日生まれ、神奈川県出身です。1985年4月1日におニャン子クラブの活動を始めた時点では、16歳になったばかりでした。
おニャン子クラブというと、テレビに登場した普通の女子高校生たちが、そのまま人気アイドルになっていったイメージがあります。実際、ORICON NEWSも当時のメンバーについて、ほとんどが素人の女子高校生だったと紹介しています。
ただし樹原さんには、テレビ出演より前にモデルとして仕事をしていた時期がありました。この事実は、2017年の本人インタビューではっきり語られています。
アイドル志望ではなくモデル出身だった
樹原さんが自分の原点について語った言葉は、とても短いものでした。
もともとモデル出身でアイドルには興味がなかったんです。
出典:SmartFLASH「元おニャン子クラブ『樹原亜紀』いまはオランダで専業主婦」(2017年10月16日)
モデルの仕事をしていたことと、アイドルを目指していたことは同じではありません。少なくとも本人の記憶では、おニャン子クラブへ入る前から「歌手になりたい」「アイドルになりたい」と考えていたわけではありませんでした。
テレビに出る前からモデル活動を経験していた一方、本人の興味はアイドルには向いていなかった。
この点は、後に人気アイドルグループの初期メンバーになる樹原さんを見るうえで外せない部分です。
ただ、モデル時代については、どの事務所に所属し、どの雑誌や広告の仕事をしていたのかといった詳細まで本人が公に振り返った資料は多く残っていません。幼少期の遊びや習い事、将来の夢などについても同様です。
分かっている範囲を越えて少女時代を作り足すより、ここでは本人が語っている「モデル出身」という事実から先へ進みます。
テレビの世界へ入るきっかけ
樹原さんの経歴が大きく動くのは1985年です。
フジテレビでは同年4月1日、平日夕方の生放送番組「夕やけニャンニャン」がスタートしました。放送ライブラリーにも、番組の放送期間が1985年4月1日から1987年8月31日までだったことが記録されています。
SmartFLASHが掲載した樹原さんのプロフィールでは、樹原さん自身も「夕やけニャンニャン」の初回放送から出演したメンバーとされています。
つまり16歳だった1985年春、モデルとして活動していた樹原さんの日常に、平日夕方の生放送という新しい仕事が加わりました。
ここで重要なのは、後から完成されたアイドルグループへ加入したわけではないことです。番組そのものが始まる日からそこにいて、おニャン子クラブの最初期を過ごしています。
樹原亜紀の家族構成は?両親や兄弟姉妹について
樹原亜紀さんの子ども時代について、父親や母親、兄弟姉妹の人数や職業まで具体的に明かした本人インタビューは多くありません。一般人である家族について、未公表の名前や職業を推測することはできません。
そのため、少女時代の家庭環境について「芸能活動を家族が強く勧めた」「父親の仕事が芸能界入りにつながった」といった話を、根拠なく加入理由へ結びつけることは避ける必要があります。
一方、樹原さん本人が後年つくった家族については、自ら語っています。
オランダ人アーティストと結婚し2人の息子の母に
2017年のSmartFLASHのインタビューによると、樹原さんはおニャン子クラブ卒業後にイギリスへ留学し、その後バックパッカーとしてアジアを巡りました。そしてオランダ人のニューメディアアーティスト、Geert Mulさんと結婚しています。
出産後はオランダ・ロッテルダムで暮らし、2児の母となりました。2025年の40周年コンサートの際にも、家庭での様子を本人が話しています。
ウチは男の子2人で、下はまだ18歳。
出典:SmartFLASH「【おニャン子クラブ結成40周年】大学教授になったレジェンドらが集結、ヒット曲に会場総立ちで“萌え”爆発!」(2025年7月9日)
同じインタビューでは、息子から「ママ、早く帰ってきて」とLINEが届いたことや、普段は家族のためにたくさん料理を作っていることも明かしています。
40周年のステージでは、かつての会員番号6番としてマイクの前に立ち、その帰る場所にはオランダでの家庭がある。1985年の少女時代とは、かなり違う生活になっています。
樹原亜紀の学歴は?高校時代に芸能界への入口へ
樹原亜紀さんの学歴については、学校名を紹介する二次資料がある一方、本人インタビューや学校側などから確実に裏づけられる公開資料は限られています。そのため、具体的な高校名を事実として断定するのは避けます。
はっきりしているのは、1969年3月30日生まれの樹原さんが1985年4月に16歳で、おニャン子クラブ最初期の活動を始めていることです。
16歳だった1985年春に生活が変わった
おニャン子クラブは、一般的な芸能事務所主導のアイドルグループとは少し違う始まり方をしています。
フジテレビの「夕やけニャンニャン」は、ティーンエイジャーを対象にした生放送バラエティーでした。そこへ出演する女子高校生たちが、おニャン子クラブという存在になっていきます。
樹原さんの場合、すでにモデル経験はありました。それでも本人はアイドルを志望していなかったため、学校生活の先に歌手デビューを目標として準備していた、という経歴とは異なります。
4月1日の番組開始からレギュラーとしてテレビに出る。その時点では、わずか数カ月後に自分たちのレコードが発売される未来まで、最初から決められた一本道だったわけではありませんでした。
学校名よりはっきり残っているモデル時代
樹原さんの高校生活については、部活動、委員会、学校行事、友人との過ごし方といった具体的な本人証言がほとんど公に残っていません。
一方で「モデル出身」という言葉は本人自身の証言です。学歴を調べるときも、確証の薄い学校名だけを追うより、当時すでにモデルという形で人前に出る仕事を経験していたことのほうが、芸能界へ入る直前の姿を具体的に示しています。
モデルからアイドルへ転向しようと本人が決めていたわけではありません。結果として「夕やけニャンニャン」への出演が始まり、その番組からおニャン子クラブが急速にアイドルグループとして形を持っていきました。
樹原亜紀がおニャン子クラブ会員番号6番になるまで
USENの「おニャン子クラブメンバー一覧」では、樹原亜紀さんは会員番号6番。加入日は1985年4月1日、卒業日は1987年3月30日と記録されています。
4月1日加入組には、新田恵利さん、中島美春さん、国生さゆりさん、名越美香さん、福永恵規さんらがいました。河合その子さん、内海和子さん、富川春美さんらは4月5日加入となっており、樹原さんはまさにスタート時点からいたメンバーです。
1985年4月1日「夕やけニャンニャン」初回から出演
ポニーキャニオンが発売した「夕やけニャンニャン おニャン子白書(1985年4~6月)」は、1985年4月1日の放送開始から3カ月間をまとめた公式映像資料です。
そこには、のちに大きな人気を集めるメンバーたちが、完成されたアイドルとしてではなく、生放送のバラエティー番組へ出演していた時期の姿が残っています。
番組内には「ザ・スカウト アイドルを探せ!」というオーディション企画もあり、4月には河合その子さん、内海和子さん、富川春美さん、5月には城之内早苗さん、6月には岩井由紀子さんが加わっていきます。
つまり、樹原さんが会員番号6番になった時点で、おニャン子クラブは固定された完成形ではありませんでした。生放送を続けながら新しいメンバーが増え、グループそのものが毎週のように姿を変えていた時期です。
加入直後の番組で福永恵規と居合道にも挑戦
初期の樹原さんを具体的に映す場面の一つが、1985年4月の番組企画「鶴太郎のニャンニャン部活動」です。
ポニーキャニオンの公式収録内容には、福永恵規さんと樹原亜紀さんが居合道に挑戦したことが明記されています。
のちのおニャン子クラブをレコードやコンサートだけで知ると、どうしても「アイドルグループ」という完成後の姿が先に浮かびます。しかし初期には、制服姿のメンバーが生放送の企画へ参加し、居合道までやっていました。
樹原さんもその一人です。モデル経験がありながらアイドルには興味がなかった16歳が、まずやっていたのは、歌手としてステージだけに立つことではなく、毎日のテレビ番組の中でさまざまな企画へ参加することでした。
「夕やけニャンニャン」には、メンバーの好きだった芸能人を紹介する「おニャン子 ベスト5」、発声法や早口言葉を学ぶ「おニャン子講座」など、歌以外の企画も数多くありました。
そうした日々の放送を重ねるうちに、「番組に出ている女子高校生たち」は、少しずつ「おニャン子クラブ」というアイドルグループとして認識されていきます。
結成直後に起きた喫煙報道
おニャン子クラブのスタート直後には、大きな出来事もありました。
1985年4月、週刊誌に高校生メンバーの喫煙をめぐる記事が掲載され、初期メンバー5人がおニャン子クラブを離れています。会員番号7番だった友田麻美子さんも、2017年のSmartFLASHで当時の出来事を振り返っています。
USENのメンバー記録を見ると、会員番号1番の奥田美香さん、2番の榎田道子さん、3番の吉野佳代子さん、7番の友田麻美子さん、10番の佐藤真由美さんは1985年4月25日まで。一方、会員番号6番の樹原さんはその後も在籍し、1987年3月30日に卒業しています。
樹原さんについても、この出来事と結びつけたさまざまな話が後年まで残っています。ただし、樹原さんが活動を続けることになった理由を、番組側が公式に詳しく説明した信頼性の高い公開資料は乏しい状態です。
とくに、父親の職業やテレビ局との関係を理由にした説を裏づける本人・家族・番組側の一次資料は確認できません。そうした説から「なぜ一人だけ残ったのか」を断定することはできません。
確実にたどれるのは、1985年4月1日に加入した樹原さんが、その後も会員番号6番として活動を続けたという記録です。
「セーラー服を脱がさないで」のレコーディングへ
番組が始まってからまだ3カ月もたたないうちに、おニャン子クラブはテレビの出演者だけではなく、レコードを出すグループへ向かいます。
ポニーキャニオンの「おニャン子白書(1985年4~6月)」には、「セーラー服を脱がさないで」のレコーディング風景も収録されています。
4月には居合道などの番組企画へ参加していた樹原さんたちが、6月になるころにはスタジオでデビュー曲を録音していたことになります。
テレビ番組のアシスタント的な存在として始まったメンバーたちの活動に、「レコーディング」という仕事が加わりました。樹原さんにとっても、モデルからテレビ出演者へ、そしてレコードを出すアイドルグループのメンバーへと立場が変わっていく時期でした。
アイドルに興味がなかった樹原亜紀がステージに立った1985年
「夕やけニャンニャン」が始まった1985年4月から約3カ月。おニャン子クラブは「セーラー服を脱がさないで」でレコードデビューを迎えます。
40周年コンサートの公式サイトでは、2025年7月5日の公演を同曲の発売日から「ジャスト40年」と案内しています。そこからさかのぼると、発売日は1985年7月5日です。
番組開始時に16歳だった樹原さんにとっても、会員番号6番として過ごし始めてからわずか数カ月後の出来事でした。
1985年7月5日「セーラー服を脱がさないで」でデビュー
「セーラー服を脱がさないで」は、おニャン子クラブを代表する曲として長く残ることになります。
ポニーキャニオンの公式映像資料では、4~6月編にレコーディング風景が収録され、続く7~8月編には同曲のチャート順位を扱う企画まで残っています。テレビの中で始まったグループのレコードが、番組そのものの話題になっていきました。
4月1日の初回放送、番組内のさまざまな企画、初レコーディング、そして7月5日のレコード発売。樹原さんの最初の数カ月を並べると、アイドルになるまでの変化が短い期間に集中していたことが分かります。
その後、樹原さんはおニャン子クラブ内のユニット「ニャンギラス」にも参加し、会員番号6番として1987年3月30日まで在籍しました。
卒業するころには、テレビへ出始めた16歳のころとは本人の気持ちも変わっていました。2017年のインタビューでは、卒業当時に感じていたことをこんな言葉で振り返っています。
違う景色が見たい、自由になりたい
出典:SmartFLASH「元おニャン子クラブ『樹原亜紀』いまはオランダで専業主婦」(2017年10月16日)
卒業後にはフリーライターとして雑誌のコラムや映画レビューを書き、イギリス留学やアジアへの旅を経験しました。やがてオランダへ生活の拠点を移していきます。
自分が所属していたおニャン子クラブについても、後年になって独特の表現で振り返っています。
おニャン子は、昭和アナログの象徴
出典:SmartFLASH「元おニャン子クラブ『樹原亜紀』いまはオランダで専業主婦」(2017年10月16日)
モデル経験はあったものの、アイドルには興味がなかった樹原亜紀さん。それでも1985年4月1日から「夕やけニャンニャン」に入り、会員番号6番として番組企画をこなし、レコーディングを経験し、7月にはおニャン子クラブとしてレコードを出しました。
そして40年後の2025年7月5日、樹原さんはオランダから再びその曲のあるステージへ戻ってきました。会員番号6番の始まりをたどると、その出発点は「アイドルになりたい」と考えていた少女ではなく、モデルとして仕事をしていた16歳の樹原亜紀さんに行き着きます。



























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