おニャン子クラブ会員番号4番として知られる新田恵利さん。1985年に『夕やけニャンニャン』へ出演し、翌1986年には「冬のオペラグラス」でソロデビューしました。
テレビの中では早くから中心メンバーとして注目された一方、アイドルになる前は人前で目立つタイプではなく、ごく普通の学校生活を送っていました。
芸能界への入口になった応募の目的も、最初からアイドルになることではなく、優勝賞品のハワイ旅行でした。
埼玉県上福岡市で過ごした少女時代、家族との暮らし、中学・高校での日常、そして不二家のアルバイトからテレビ局へ通うようになるまで。会員番号4番が生まれる前には、かなり生活感のある時間が流れていました。
まずは、まだテレビとは無縁だったころの新田恵利さんからたどっていきます。
新田恵利は昔どんな少女だった?埼玉・上福岡で過ごした幼少期
新田恵利さんの公式プロフィールには「埼玉県出身」とあります。本人は、現在のふじみ野市にあたる上福岡市で暮らしていたころのことを詳しく振り返っています。
上福岡市は当時、駅の両側に大きな団地が並び、小学校も多い地域でした。新田さんは、そんな住宅地の中で少女時代を過ごしています。
外では目立たなかった内弁慶な少女
家では言いたいことを言える一方、外へ出ると大人しくなるタイプでした。後年のインタビューでは、自分のことを「内弁慶」と振り返っています。
読書も幼いころから身近にありました。母親はお菓子には厳しかったものの、本については比較的すんなり買ってくれたそうです。
新田さんの記憶に残っているのが『シンデレラ』の本です。幼い自分には体より大きく感じられるほどの本を抱えていたと話しています。
家にあるテレビも自由に好きな番組を見られたわけではありませんでした。テレビは1台だけで、父親が見る番組が優先され、家族でプロ野球を見ることも多かったそうです。
ピンク・レディーをまねて路地で踊った日々
外では大人しい新田さんにも、家の前では小さなステージがありました。近所の女の子とピンク・レディーのネグリジェを着て、路地で「UFO」や「サウスポー」を踊っていたのです。
近所の人たちが夕涼みをしながら眺める中、新田さんはピンク・レディーのケイ役になりきっていました。
「私はケイちゃんだ。」
出典:日刊ゲンダイDIGITAL「中3で父が病に倒れ…高校入学と同時にアルバイトを始める」(2019年1月8日)
後に多くの観客の前で歌うことになりますが、このころにあったのは近所の女の子との遊びです。テレビ出演や芸能界を将来の目標にしていたわけではありませんでした。
現在の公式YouTube「新田工務店」でも、新田さんは幼いころからハンドメイドが好きだったと紹介しています。最初はフェルトのマスコット作りから始まり、物を作ることは長く続く趣味になりました。
新田恵利の家族構成は?父親・母親・姉・兄との暮らし
新田さんは再婚同士の両親のもとで、年の離れた姉と兄に囲まれて育ちました。父親は大工で、新田さんが生まれたとき56歳、母親は39歳でした。
大工だった父親から教わったリンゴの皮むき
父親は新田さんをかわいがる一方、家のしつけでは昔気質なところがありました。小学校へ入ると、リンゴと包丁を渡され、皮が一本につながるようにむけるまで練習するよう言われたそうです。
父親は大正生まれの大工。新田さんとは年齢が離れていたため、一緒に歩いていると周囲の子から祖父のように見られ、からかわれることもありました。
新田さんはそのたびに「おじいちゃんじゃない」と心の中で思っていたと振り返っています。父と娘の日常が浮かぶ、小さな少女時代の記憶です。
母親に家事を教わり、姉と兄に囲まれた末っ子時代
母親も家事には厳しく、日曜日は家族分の洗濯を終えなければ遊びに出られませんでした。小学生のころから、自分が担当する家事を済ませてから遊びに行く生活でした。
姉は10歳上、兄は3歳上です。年の離れたきょうだいから音楽の影響も受け、周囲の同級生とは少し違う歌手に親しむこともありました。
中学生になるころにはアリスなども聴いていました。姉や兄がいる家庭だったことが、新田さんの音楽の好みにも自然に入り込んでいたようです。
中学3年で父親が病に倒れ家計にも変化
家庭の状況が大きく変わったのは中学3年のころです。父親が救急車で運ばれ、ICUへ入ることになりました。
その後、父親は働けない状態となり、母親がパートへ出るようになります。新田さん自身の高校進学にも、家計の事情が関わるようになりました。
もともと希望していた私立高校はあきらめ、交通費がかからず学費も抑えられる地元の県立高校を選びます。芸能界とはまだ接点のない時期に、家庭の変化によって進路を考え直していました。
新田恵利の学歴は?小学校・中学校・高校時代を調査
学生時代の新田さんには、芸能活動を目指して特別な学校へ通っていたという経歴はありません。上福岡で学校生活を送り、中学校では美術部、高校へ進むとアルバイトを始めています。
小学校では答えが分かっても手を挙げられなかった
小学生のころは、人前で目立つことが苦手でした。先生が出した問題の答えが分かっていても、恥ずかしさから手を挙げられなかったと本人が話しています。
クラスの前へ積極的に出ていく子ではありませんでした。その一方、自宅では包丁を使い、洗濯もするなど、生活面では自分でできることを増やしていました。
中学は美術部!手作り弁当とおしゃれに興味
中学校では美術部に所属しました。不良グループにも優等生グループにも属さず、本人の表現では「普通の、目立たない生徒」でした。
土曜日に学校へ持っていく弁当は自分で作っていました。家事を任されていた家庭での生活が、学校へ持っていく弁当にもつながっています。
一方で、おしゃれには目覚めていきます。髪を伸ばしてドライヤーを使い、当時流行していたファラ・フォーセット風のレイヤースタイルにしていました。
学校へ持っていくカバンは、3歳上の兄が使っていた薄く押しつぶした革の学生カバンのお下がり。制服自体は標準的な着こなしで、カバンだけが少し背伸びしたアイテムでした。
休み時間には、たのきんトリオなど当時のアイドルが話題になります。友人との会話についていくため、新田さんにはちょっとした作戦がありました。
「学校ではヨッちゃんファンで通していました」
出典:女性自身「新田恵利 おニャン子全盛期に感じた“孤独”埋めたのは読書」(2021年4月12日)
実際には中村雅俊さんや柴田恭兵さんが好きだったと本人は振り返っています。周囲で盛り上がる話題と、自分が本当に好きなものは少し違っていました。
当時思い描いていた将来も、アイドルや歌手ではありません。新田さんが望んでいたのは、家庭を持つ生活でした。
「将来の夢は良妻賢母。」
出典:日刊ゲンダイDIGITAL「中3で父が病に倒れ…高校入学と同時にアルバイトを始める」(2019年1月8日)
地元の県立高校へ進み不二家でアルバイト
父親が働けなくなったこともあり、高校は地元の県立高校へ進みます。入学と同時に不二家でアルバイトを始め、時給は380円でした。
働き始めた理由の一つには、自分で使うお金を自分で稼ぐという生活があります。高校生になったころには、家事もかなりこなせるようになっていました。
アルバイト代には楽しみな使い道もありました。友人と「お金を貯めて北海道へ行き、キタキツネを見よう」と目標を立てていたのです。
旅行好きの高校生が、不二家で働きながら旅費を貯める。この何気ない日常が、のちに思わぬ方向から芸能界への入口とつながります。
高校2年で芸能界への入口!きっかけはハワイ旅行だった
高校2年生のころ、『オールナイトフジ』が人気を集めていました。新田さんは身近な人から「女子高生スペシャルに出てみれば」と勧められます。
ただし、芸能界へ入りたいという気持ちはほとんどありませんでした。本人の気持ちが動いたのは、コンテストの優勝賞品を聞いたあとです。
『オールナイトフジ 女子高生スペシャル』へ応募
優勝するとハワイ旅行がもらえる。旅行のためにアルバイトをしていた新田さんにとって、それは分かりやすく魅力的な賞品でした。
「テレビに出たいというより、ハワイ旅行を当てたい!」
出典:文春オンライン「『あんたのせいで始まらないのよ!』“バイト感覚”でおニャン子を始めた新田恵利が、元メンバーに“ごもっともだな”と思ったこと」(2022年3月17日)
応募した感覚について、新田さんは「懸賞気分」とも表現しています。テレビ出演そのものより、その先にあるハワイ旅行へ目が向いていました。
アイドルを目指してレッスンを重ねた末の挑戦ではなく、旅行好きな高校生が賞品につられて応募したテレビ番組。それが最初の接点になりました。
特番出演から新番組のアシスタントへ
『オールナイトフジ 女子高生スペシャル』では、特番3回すべてに出演しました。そこで終わる予定でしたが、スタッフから後日手紙が届きます。
書かれていたのは、4月から始まる新番組のアシスタントをやらないかという誘いでした。その新番組が、1985年4月1日に始まった『夕やけニャンニャン』です。
「アシスタント」と聞いて新田さんが想像したのは、番組でフリップを持ったり、応募先を案内したりするような役割でした。
「それぐらいなら私でもできるだろう。」
出典:日刊ゲンダイDIGITAL「時給800円のバイト生活が一変 出演料5000円にクラクラ…」(2019年1月9日)
『夕やけニャンニャン』へ!放課後に電車3本でフジテレビへ
テレビの仕事は、新田さんにとって当初から特別な芸能活動というよりアルバイトに近いものでした。その感覚をさらに強めたのが、1回5000円という出演料です。
時給380円から出演料5000円の「アルバイト」に
不二家の時給は380円。それに対してテレビは1回の出演で5000円でした。北海道旅行のために働いていた高校生にとって、その差はかなり大きなものでした。
ケーキを箱へ詰める不二家の仕事と比べ、テレビのアシスタントなら自分にもできそうだと考えます。仕事を受ける判断にも、高校生らしい金銭感覚がはっきり表れていました。
週5日出演すれば、当時の高校生のアルバイトとしては大きな収入になります。新田さんは後年、不二家からおニャン子クラブへ「バイト先を乗り換えた」ような感覚だったと話しています。
高校の先生と両親の許可を得てテレビ局通い
番組へ継続的に出演するには、学校と両親の許可が必要でした。高校の生活指導の先生は「前例がない」としながらも、最終的に芸能活動を認めてくれました。
許可が出ると、学校とテレビ局を行き来する生活が始まります。授業が終わると自転車で駅まで急ぎ、上福岡駅から東武東上線で池袋へ向かいました。
池袋から山手線で新宿、さらに都営線で曙橋まで乗り継ぎます。電車は3本。そこから当時河田町にあったフジテレビへ向かいました。
授業終了は午後3時15分ごろで、生放送は午後5時。楽屋に着くのが放送5分前という日もあり、到着すると急いで着替えて本番へ入っていました。
朝は高校へ行き、放課後は自転車と電車でテレビ局へ走る。おニャン子クラブが知られていく一方で、新田さんの日常には高校生活がそのまま残っていました。
新田恵利がおニャン子クラブ会員番号4番になるまで
1985年、『夕やけニャンニャン』への出演をきっかけに、新田さんはおニャン子クラブの会員番号4番として活動を始めます。公式プロフィールにも1985年の番組出演と会員番号4番だったことが記されています。
アシスタントのつもりがアイドル活動へ
本人は新番組のアシスタントとして参加したつもりでした。ところが番組の中でおニャン子クラブが形になり、会員番号が与えられ、歌う場面も増えていきます。
芸能スクールで準備を重ねてきたわけでも、子どものころからアイドルを目標にしていたわけでもありません。ハワイ旅行を狙ったテレビ出演から、予想していなかった方向へ道が伸びていきました。
「毎日が文化祭」のようだったおニャン子初期
初期のおニャン子クラブには、一般の学生たちが集まって番組を作る独特の空気がありました。新田さん自身も、当時を学校行事の延長のような言葉で表しています。
「もう、毎日が文化祭みたいでしたね。」
出典:文春オンライン「『あんたのせいで始まらないのよ!』“バイト感覚”でおニャン子を始めた新田恵利が、元メンバーに“ごもっともだな”と思ったこと」(2022年3月17日)
スタッフに言われた場所へ座り、渡されたものを読み、番組の流れに入っていく。華やかなデビューというより、毎日の生放送の中で少しずつ「おニャン子クラブの新田恵利」ができていきました。
「冬のオペラグラス」でソロデビューへ
おニャン子クラブで活動を始めた翌1986年、新田さんは「冬のオペラグラス」でソロデビューします。公式プロフィールでも、1985年のおニャン子クラブ活動に続く経歴として記載されています。
中学生のころには『ザ・ベストテン』をテレビで見る側だった新田さんが、ソロ歌手として同番組へ出演するところまで生活は変わりました。
ただ、その出発点にあったのは、特別な芸能教育ではありません。家事をし、美術部に入り、不二家で働き、友人との北海道旅行のためにお金を貯めていた高校生の日常でした。
新田さん自身のInstagramでは、現在の姿も発信されています。一方、元おニャン子クラブメンバーと歌声を重ねた投稿も残り、かつての活動を振り返る場面があります。
おニャン子クラブの節目には、現在も当時を振り返る企画が行われています。けれど、会員番号4番になる前の新田恵利さんは、学校へ通い、家事をし、旅行のためにアルバイトをする一人の高校生でした。
ハワイ旅行を狙って応募したテレビ番組から『夕やけニャンニャン』へ。放課後に始まったテレビ局通いが、新田恵利さんをおニャン子クラブのステージ、そして「冬のオペラグラス」のソロデビューへ運んでいきました。




























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