2026年8月25日、ピンク・レディーは「ペッパー警部」でのデビューから50年を迎えました。ケイとして日本中を熱狂させた増田惠子ですが、その原点をたどると、静岡と焼津で過ごした少女時代へ戻ります。
幼いころに父を亡くし、平日は伯母夫婦の家、週末は実母のもとへ帰る生活を送った増田惠子。小学校へ上がる前には、伯母夫婦の養女になることを自分で決めました。
一方で、歌は物心がついたころから身近にありました。3、4歳のころにはテレビで覚えた大人の恋愛歌を歌い、6歳になるころには歌手という将来をはっきり思い描いています。
6歳のころには、歌手になると心に決めていました。
やがて中学校で未唯mieと出会い、高校では休み時間まで使って二人で歌う日々へ。ヤマハの「クッキー」、「君こそスターだ!」での落選、「スター誕生!」への再挑戦を経て、18歳でピンク・レディーとしてステージに立つまでを追います。
増田惠子の生い立ち!静岡から焼津へ移った幼少期
増田惠子は静岡県で、父・母・兄・姉のいる5人家族の末っ子として生まれました。本人が覚えている最も古い家は、静岡市の県営アパートです。
3階建ての最上階で、朝日や夕焼けがよく見え、周囲には山の緑が広がっていました。どこかから野焼きの匂いが漂ってくるような、のどかな場所だったと後年振り返っています。
父を幼くして亡くし、平日は伯母夫婦の家へ
幼いころ、父が交通事故で亡くなります。6歳上の兄、3歳上の姉、まだ小さかった増田惠子を育てるため、母は働きに出ることになりました。
そこで増田惠子は、母の姉夫婦が暮らす焼津市の家に平日のあいだ預けられます。もともと兄妹だけで泊まりに行くこともあった家だったため、最初は「泊まる期間が少し長くなった」ような感覚だったそうです。
土日になると母が迎えに来て静岡の家へ戻り、週末を過ごすとまた焼津へ。二つの家を行き来する生活が、小学校へ上がるころまで続きました。
小学校入学前、自分で養女になることを決めた
小学校へ進む段階で、増田惠子は実母のもとへ戻るか、伯父・伯母の養女になって焼津で暮らし続けるかを選ぶことになります。母と暮らしたい気持ちと、焼津の家にもいたい気持ちの両方がありました。
焼津のおうちの子になろう
出典:住友不動産販売「インタビュー 私のいえ~すまいの履歴書~ Vol.63 増田惠子さん」(2023年2月10日)
まだ小学校へ上がる前の増田惠子は、自分の意思で伯父・伯母の養女になる道を選びました。
母が大変だから自分は焼津で暮らしていること、帰りたいときには母のところへ帰れることも理解していたといいます。幼い本人のなかで、二つの家はどちらも大切な居場所でした。
漁師町・焼津で遊んだお転婆な少女時代
養家のある焼津は、近所同士の距離が近い漁師町でした。伯父は船元をしており、家には近所の大人たちが頻繁に出入りしていました。
隣の家から「コロッケを作ったよ」と呼ばれて夕飯をごちそうになり、そのまま泊まってしまうこともありました。庭先では水揚げされた魚を選別し、土間の先の台所ではカニやしらすを大きな釜でゆでる。そんなにぎやかな日常でした。
遊び方も豪快です。台風のあとには海岸へ行き、消波ブロックに打ち上げられた小さなフグを近所の子どもたちと拾いました。小川では男の子たちに交じり、素手でザリガニを捕まえて遊んでいたそうです。
家の外には海や小川があり、近所の家も遊び場の続きでした。後にステージで華やかな衣装をまとった「ケイ」の少女時代には、焼津の町を走り回る時間がありました。
増田惠子の家族構成は?父・母・兄・姉と養家での暮らし
増田惠子には6歳上の兄と3歳上の姉がいます。幼少期に父を亡くした後は、実母や兄姉との家族関係に加え、焼津の伯父・伯母との生活が重なることになりました。
父のあぐらが定位置だった幼いころ
父と暮らしていた静岡市の県営アパートでは、家族でちゃぶ台を囲んで食事をしていました。そのとき、末っ子の増田惠子の席は父のあぐらの上でした。
父は末っ子の娘をとてもかわいがっていたといいます。父と過ごせた時間は長くありませんでしたが、ちゃぶ台と父の膝という小さな場面が、本人の一番古い「家」の記憶として残っています。
実母の家と焼津を行き来した生活
伯母夫婦の養女になった後も、実母や兄姉とのつながりが消えたわけではありません。焼津で暮らしながら、母のもとへ帰ることのできる距離にいました。
歌手になりたいという思いが具体的になってからは、実母もその夢を支えます。高校時代、静岡から浜松へレッスンへ通う交通費やステージ衣装にかかる費用を母が負担してくれたと、増田惠子は後年語っています。
一方、養母となった伯母は芸能界入りに慎重でした。歌手になることそのものより、まず高校を卒業することを強く求めました。そのため増田惠子はレッスンや歌の活動を続けながら、学校の勉強も手放しませんでした。
中学1年の冬、伯父を亡くして静岡市へ
中学1年の冬には、養父となった伯父も亡くなります。増田惠子は伯母とともに静岡市へ移り、焼津で続いていた近所ぐるみの生活から離れました。
焼津の家では近所の人が絶えず出入りしていただけに、環境が変わった直後は寂しさもあったといいます。ただ、静岡へ戻ったことで実母の家は近くなり、会いたいときに会いやすくなりました。
増田惠子の学歴は?中学・高校で未唯mieと歌手を目指す
焼津で小学校時代を過ごした増田惠子は、中学時代に静岡市へ移りました。そこで出会ったのが、のちにピンク・レディーのミーとなる根本美鶴代、現在の未唯mieです。
転校先の中学演劇部で未唯mieと出会う
二人が親しくなったのは中学3年のとき。必須クラブの演劇部で一緒になりました。当時、未唯mieは女優を志し、増田惠子は歌手を目指していました。
増田惠子が歌手を意識したのは、もっと幼いころです。3、4歳からテレビの歌番組を見て恋愛歌を覚え、近所の大人たちから歌をせがまれていました。
絶対私は歌手になるんだって心に決めたんです。
出典:CREA「ピンク・レディー前夜の増田惠子(68)が抱えていた苦悩…」(2026年1月10日)
きっかけの一つは6歳のころ。幼稚園で合唱をした際、オルガンを弾く先生から歌を褒められました。近所の大人とは違う、憧れていた先生から認められたことが、将来の夢をはっきりさせました。
常葉高校では10分休みにコーラス練習
中学卒業後、二人は演劇が盛んだった常葉高等学校、現在の常葉大学附属常葉高等学校へ進学しました。クラスは別々でしたが、学校のなかでも歌う時間を作っていました。
10分間の休み時間になると、二つの教室の中間地点で待ち合わせます。短い休み時間に二人でコーラスを合わせ、授業が始まればそれぞれの教室へ戻る。高校生活のなかに、歌の練習が組み込まれていました。
土日は東海道線で静岡から浜松へ向かい、ヤマハのレッスンに通うようになります。片道約1時間半の電車でも、小さな声でハモりながら移動したと振り返っています。
高校1年で二人ともヤマハのオーディションに合格
高校1年のころ、静岡市の街中でヤマハのオーディションを知り、二人はそれぞれソロで応募しました。増田惠子は「ジョニィへの伝言」と「恋の衝撃」を歌い、未唯mieも別の曲で挑戦。二人とも合格します。
最初はそれぞれソロ志望でした。しかし、二人の声質が大きく違うことに可能性を感じた指導者から、デュオで歌うことを勧められます。こうしてピンク・レディーの前身「クッキー」が生まれました。
高校時代の「クッキー」はピンク・レディーの原型だった
1974年、増田惠子と未唯mieは「クッキー」として本格的に二人で歌い始めます。名前は、当時人気だったキャンディーズを意識して付けられたものでした。
二人は仲が良くても、声は対照的でした。未唯mieは高く澄んだ声、増田惠子は低く倍音のある声。その違いを一つのサウンドにするところから、デュオとしての練習が始まります。
声質の違う二人がハーモニーを作るまで
最初の課題曲は「サルビアの花」でした。テンポの遅い曲では、音程が合っていても二人の声がきれいに混ざらないことがはっきり出ます。そこで相手の声をよく聴き、何度も歌い直しました。
学校の10分休み、浜松へ向かう電車、レッスンの時間。歌える場所があれば二人で合わせ続けます。やがて同じメロディーを歌うユニゾンで、二つの声が一つに聞こえる瞬間が訪れました。
私たちのサウンドってこれだ!
出典:ENCOUNT「増田惠子が語る『ピンク・レディー』誕生秘話」(2022年10月15日)
「クッキー」の二人はヤマハのポプコン地方大会にも参加し、オリジナル曲「恋のレッスン」も歌いました。高校生ながら、地元で歌うだけではなく、プロを意識した舞台経験を積んでいきます。
ヤマハ製品のキャンペーンで各地を回る仕事もありました。宣伝用のトラックとともに会場へ行き、用意されたカラオケで3曲ほど歌うと、初めての出演料として3000円を受け取ったこともあったといいます。
学校がある平日は静岡、週末は浜松のレッスンやステージという生活でした。歌手への道がまだ約束されていない時期から、人前で歌うことと学校生活の両方を続けていました。
ミニスカートと編み上げブーツ、自作の振付
浜松の市民文化センターなどで歌うときは、ミニスカートに編み上げのブーツという衣装を選び、アップテンポな曲には自分たちで振付を考えました。
後年のピンク・レディーを思わせる「歌って動く二人組」は、高校時代にすでに形を見せていました。ヤマハの商品の宣伝で各地を回り、カラオケに合わせて歌う仕事も経験しています。
その一方で、ヤマハに所属してレッスンを続けても、高校3年になってなおデビューは決まりませんでした。卒業後の進学や一般就職を考えていなかった二人には、残された時間が少なくなっていきます。
「君こそスターだ!」落選から「スター誕生!」へ
高校3年になると、増田惠子と未唯mieはヤマハ以外にも道を探します。最初に挑んだのが、フジテレビのオーディション番組「君こそスターだ!」でした。
「素人っぽくない」と落とされた二人
「クッキー」時代の二人は、ミニスカートとブーツで歌い、振付も自分たちで付ける高校生デュオでした。その完成度が、オーディションでは逆に弱点になります。
審査では「素人っぽくない」「新鮮さがない」と評され、不合格。高校卒業が近づくなか、学校の校長からも進学や就職を考えるよう促されました。
養母の伯母も「何が何でも高校だけは卒業する」ことを求めました。増田惠子は睡眠時間を削り、教科書を覚えて試験に臨みながら、歌のレッスンと学校生活を両立させました。
サロペット姿で挑んだ逆転のオーディション戦略
次に二人が向かったのは、日本テレビの「スター誕生!」です。ただし「君こそスターだ!」と同じ見せ方はしませんでした。
開襟シャツにサロペットを着て、激しい振付はほとんど封印。あまり知られていない曲を選び、ハーモニーとリズム感を聴かせる、素朴な高校生の姿で審査に臨みました。
素人っぽさで売ろうという、私たちの作戦だったんです
出典:日刊スポーツ「増田惠子『歌えないって言ったら灰皿が…』」(2024年7月7日)
高校時代に磨いてきた技術を前面に出すのではなく、見せ方を変えた再挑戦でした。歌ったのは「部屋を出てください」。1975年末のテレビ予選では、合格ラインを大きく上回る客席票を得ました。
その結果、二人は1976年2月の決戦大会へ進みます。「君こそスターだ!」で落とされたときの見せ方を反転させたことが、今度は次の扉を開きました。
18歳の決戦大会でスカウトを受ける
決戦大会では複数の会社からスカウトのプラカードが上がり、二人のプロデビューが動き始めました。増田惠子は後年、7、8社ほどから札が上がったと振り返っています。
高校卒業を目前にして、ようやくプロの歌手になる道が具体化しました。ビクターの公式プロフィールにも、1976年の「スター誕生!」決戦大会を経てスカウトされ、デビューへ進んだ流れが記録されています。
ただし、ここで二人がすぐ「ピンク・レディー」になったわけではありません。「スター誕生!」で見せた素朴なイメージが、そのままデビュー企画にも持ち込まれました。
「白い風船」からピンク・レディーへ
スカウトを受けた二人には、当初「白い風船」というフォークデュオでのデビュー案がありました。「スター誕生!」でフォーク調の曲を選び、素朴に見せた作戦が、そのままプロ側にも伝わっていたのです。
希望とは違ったフォークデュオ構想
増田惠子がもともと目指していたのは、ソウルフルな曲を歌うシンガーでした。若いころから朱里エイコやペドロ&カプリシャスのような、大人びてビートのある曲を好んでいます。
そのため「白い風船」という方向には戸惑いがありました。それでも、まずデビューできることを受け止め、この先につなげようと考えていたころ、事務所で状況が一変します。
「ピンク・レディー」と聞いて二人で泣いた
プロデューサーの相馬一比古が事務所へ駆け込み、「白い風船」ではなく「ピンク・レディー」に決まったと二人へ告げました。都倉俊一が考えたその名前は、二人の異なる個性が合わさって一つの味になるという発想にも重ねられていました。
フォーク路線から離れ、自分たちが歌いたかったアップテンポでソウルフルな方向へ進めると知った瞬間、二人は泣きました。
ようやく自分が歌いたいソウルフルな曲が歌える!
出典:TOKYO FM「川島明 そもそもの話 #91 増田惠子さん」(2025年9月10日)
名前が決まると、「ペッパー警部」のレコーディングが始まります。阿久悠が作詞、都倉俊一が作曲を担当し、増田惠子と未唯mieにとって初めてのピンク・レディーのオリジナル曲になりました。
同時に録音した「乾杯お嬢さん」も含め、増田惠子は初めて曲を聴いたときから強い手応えを感じたと語っています。「クッキー」時代には自分たちだけのオリジナル曲がほとんどなかったため、二人のための歌を録音できること自体が大きな変化でした。
振付を担当したのは土居甫です。レコード発売前、「スター誕生!」のデビュー歌手コーナーで披露した際には、その大胆なステップが審査員を驚かせるほどでした。
1976年8月25日「ペッパー警部」でデビュー
1976年8月25日、増田惠子は18歳で、未唯mieとともにピンク・レディーとして「ペッパー警部」でレコードデビューしました。高校卒業の年でした。
その少し前まで、二人は学校の休み時間に10分だけ集まって歌い、静岡から浜松へ通う高校生でした。「クッキー」で作ったハーモニーと、自分たちで考えてきた衣装や振付は、新しい名前のもとでそのまま次のステージへ持ち込まれます。
焼津でフグやザリガニを追いかけ、6歳で歌手を夢見た少女は、1976年の夏に「ケイ」として最初の一歩を踏み出しました。ここから、ピンク・レディーのステージが始まります。


























コメントを残す