相田翔子さんといえば、鈴木早智子さんとのデュオ・Winkで見せた、静かな表情と控えめな佇まいを思い浮かべる人も多いでしょう。1988年のデビュー後、その独特の存在感はWinkの大きな個性になりました。
ところが、本人が振り返る子ども時代は、その印象とはかなり違います。東京都東村山市で男の子たちと泥だらけになって遊び、友人を驚かせるいたずらが好きで、小中学生のころには「悪魔ちゃん」というあだ名まで付いていました。
その一方で、本を読みふけり、自分で物語や脚本を書く少女でもありました。中学生になると女子プロレスラーに憧れ、高校では歌や芝居だけでなく作詞・作曲も学びますが、自分がアイドルになる未来を思い描いていたわけではありません。
人前に出ることが苦手だった少女が、友人の応募したオーディションや高校時代のレッスン、『ミスアップ』を経て、18歳でWinkとしてステージへ向かうまでには、いくつもの思いがけない出来事がありました。
相田翔子は若い頃どんな子?東村山で過ごした幼少期
相田翔子さんは東京都に生まれ、東村山市で少女時代を過ごしました。幼いころは家の中で静かに遊ぶより、外へ飛び出していく時間のほうが長かったといいます。
泥だらけで遊んだ「悪魔ちゃん」時代
近所では男の子たちに交じって夕方まで遊び、家へ帰るころには泥だらけ。ケイドロのような外遊びに夢中になり、いつも傷を作っていたというのが、本人の記憶に残る幼少期の姿です。
小さいときはやんちゃで、近所の男の子と夕方まで泥んこになって遊んでいました。
出典:CHANTO WEB「相田翔子(54)『我慢してた糸がプツッと切れ「行っちゃおうか?」って』生放送直前に逃亡した当時の極限状態を振り返る」(2024年4月4日)
お転婆ぶりは、遊び方だけではありません。2026年に幼少期を振り返った際には、小学校から中学校にかけて、人を笑わせたり、ものまねをしたり、友人を驚かせる冗談を仕掛けたりするのが好きだったと話しています。「悪魔ちゃん」というあだ名は、そんな三枚目でいたずら好きな一面から生まれたものでした。
放課後の楽しみには駄菓子屋もありました。小学校低学年のころ、自宅近くの木造平屋の小さな店へ、母からもらった100円玉を握りしめ、姉や友人と通っていたそうです。店のおばあさんは近所の子どもたちの名前を覚えてくれていました。
親友の「タム」とは、ランドセルを置くと水筒を入れたリュックと100円玉だけを持って“冒険”へ。目的地を決めず、最寄り駅から一駅、二駅ほどの距離を歩き、日が暮れかけて心細くなると来た道を引き返しました。
持ち物は水筒を入れたリュックサックと100円玉が1つだけ。
出典:Shall we Lotte「『3時のおやつ』は親子で分け合う幸せの時間」(2019年6月28日)
見慣れた街並みと駄菓子屋が見えてくるとほっとし、残していた100円でお菓子を買い、公園のベンチで二人並んで食べる。相田さんは後年、その安心感と「早く家に帰りたい」という切なさが混ざった気持ちまで覚えていると綴っています。
本が大好きで小学生から物語と脚本を書いていた
外で走り回る時間と同じくらい、相田さんを夢中にしたのが本でした。夕食を忘れるほど部屋にこもって読み続けることもあり、読むだけでは足りなくなると、自分で物語を書くようになります。
小学4年生のころには、短編小説のような作品を二つ完成させました。タイトルは「涙の川」と「秘密のビー玉」。担任の先生に作品を書いたことを話すと、給食時間にクラスのみんなへ読んでみるよう勧められ、黒板の前に立って発表しています。
6年生になると、今度は脚本を書きました。クリスマス会かお楽しみ会のために出演者を募り、自分自身も役者として参加。人前では緊張するのに、物語を考え、仲間を集め、一つのものを作ることには自然と手が伸びていました。
歌うことも小さいころから好きでした。ただし、この時点で「歌手になりたい」という方向へ気持ちが向いていたわけではありません。自分で考えたものを形にする楽しさは、のちに作詞や作曲へつながっていきます。
相田翔子の家族構成は?父親・母親・姉と育った家庭
相田さんの少女時代には、父親、母親、姉との日常がたびたび登場します。家では音楽が身近にあり、両親は演歌、姉はポップスが好きで、姉妹でピンク・レディーのまねをして遊ぶこともありました。
厳しい父が好きなだけ買ってくれた本
父親は子育てでは厳しい人だったと相田さんは振り返っています。人形やおもちゃは誕生日など特別な機会でなければ簡単には買ってもらえませんでしたが、本については別で、読みたいものを好きなだけ買ってくれたそうです。
父との記憶には、食べ物にまつわる小さな場面も残っています。ホテルマンだった父から「板チョコは冷やすとおいしい」と教わり、幼い相田さんはその言葉にどこか洒落た印象を抱いていました。母が作るカスタードプリンが固まるのを待ちきれず、何度も冷蔵庫を開けたことも覚えています。
母親は、相田さんの記憶の中では明るく、子どもたちと同じ目線で楽しむ人でした。中学生になった相田さんが反抗期を迎え、強く出ることがあっても、真正面から怒り返すというより明るさを崩さなかったといいます。
そういうときも怒ったりせず、いつでも明るい人でした。
出典:CHANTO WEB「相田翔子(54)娘はこの春中学生『ママ、精神年齢低いよね』と言われても理想は『自分の反抗期も笑顔だった亡き母』」(2024年4月4日)
姉妹が「おもしろいことをしよう」と始めると、母も一緒になって乗ってくれました。母だから一歩引くのではなく、娘たちと同じように楽しむ。その家庭の空気は、幼い相田さんがものまねや冗談を好んだ日々にも重なります。
家族が芸能活動より学業を優先した中学時代
芸能界との最初の接点が生まれたのは中学2年生のころでした。オーディション後、芸能事務所の人が両親のもとを訪れ、相田さんにモデル活動を勧めています。
両親の答えは、すぐ芸能活動を始めさせるというものではありませんでした。「今は学業優先なので、高校に上がるまで待ってください」と事務所側に伝えています。相田さん自身はそこで話が終わると思っていましたが、事務所は高校進学まで待ちました。
娘の可能性を完全に閉ざすのではなく、まず学校生活を優先する。高校へ進んだあと、事務所から改めてレッスン開始を持ちかけられたことで、相田さんの生活に芸能の時間が本格的に入ってきます。
相田翔子の学歴は?中学校から文華女子高校までの学生時代
学生時代の相田さんを追うと、歌手一直線の進路ではなかったことが見えてきます。中学校では女子プロレスに心を奪われ、高校では芸能レッスンを受けながらも、学校生活を手放してまでデビューすることには迷いがありました。
中学時代は女子プロレスラーを本気で目指していた
中学生のころに夢中になったのは、クラッシュギャルズでした。試合になると鉢巻きをして応援するほど熱を上げ、見る側だけではなく、自分も女子プロレスラーのテストを受けたいと思うようになります。
カッコよかったですよね。あのリングに立ちたかったです
出典:文化放送「第598回 相田翔子さんを迎えて その3」(2017年7月12日)
外遊びが好きで、興味を持ったものへ一直線に向かう中学生だった相田さん。このころ、本人の将来像に「アイドル」はまだ中心にありませんでした。
親友が申し込んだオーディションで芸能界と接点
中学2年生のとき、親友が「一緒にオーディションに行こう」と相田さんの分まで申し込んだことが、芸能界との接点になります。歌うことは好きでも、本人はあがり症で引っ込み思案。大勢の前へ出ることには強い緊張がありました。
当日は松任谷由実さんの「ダンデライオン〜遅咲きのたんぽぽ」を用意し、何度も練習して会場へ向かいました。ところがステージに立った瞬間に体が硬直し、思うように歌えませんでした。
「自分には向いていない」と帰ろうとしたところ、芸能事務所の人からモデルをやってみないかと声をかけられます。歌の審査で手応えを感じたから芸能界へ進んだのではなく、失敗したと思った直後に、別の入口が開いた形でした。
高校では歌・芝居・作詞作曲を学び裏方を志望
中学校卒業後は、日本文華学園文華女子高等学校へ進学しました。高校生になると、待っていた芸能事務所から改めて声がかかり、お芝居、歌、作詞・作曲などのレッスンを受け始めます。
歌を学びながらも、相田さんが惹かれていたのは「自分が前へ出て歌うこと」だけではありませんでした。幼いころに物語や脚本を書いたように、詞や曲を作り、裏側から音楽を生み出す仕事への思いが強くなっていきました。
高校時代には詞を書き、曲も作るようになっています。人前で緊張してしまう自分と、音楽そのものが好きな自分。その二つが同居するなかで、作家という進路は相田さんにとって自然な選択肢でした。
ソロデビュー曲を録音するもデビューを見送る
高校2年生になると、ソロのデビュー曲が決まり、レコーディングまで進みます。ところがデビュー直前、学校へ相談すると「芸能活動は禁止なので、続けるなら転校」という条件を示されました。
相田さんは、転校してまでデビューすることを選びませんでした。事務所へその意向を伝えると、担当者は高校卒業まで待つと受け止めます。一度は録音までした歌手デビューが、ここで止まることになりました。
その後、学校から芸名であれば芸能の仕事をしてもよいと認められ、モデル、コマーシャル、ドラマなどに出演するようになります。学校へ通いながら芸能現場にも足を運ぶ生活が始まりましたが、まだWinkという名前は存在していませんでした。
『UP TO BOY』ミスアップがWinkへの入口になった
高校時代の相田さんにとって、大きな接点になった媒体がアイドル誌『UP TO BOY』でした。2026年の同誌インタビューでは、初登場は高校2年生、16歳のときだったと本人が振り返っています。
北海道から東京まで自転車で走った高校時代
最初の撮影直前の夏休みには、北海道から東京まで自転車で走る旅をしていました。長距離を自転車で移動したことで日焼けし、そのまま撮影へ入ったため、マネージャーに怒られたという高校生らしいエピソードも残っています。
撮影を担当したのは写真家の野村誠一さん。野村さんは緊張をほぐそうと接してくれましたが、相田さんは撮影中も宿泊先の食事中も固くなったままで、ほとんど笑えなかったといいます。
野村さんから微笑みながら「おとなしいね〜」と言われたとき、相田さんの胸には「本当の私は違うのに!」という思いが浮かびました。泥んこ遊びや冗談が好きだった自分を出せず、人前に立つと別人のように緊張してしまう。その感覚を、16歳の撮影でも抱えていました。
1987年、第9代ミスアップ・グランプリに
相田さんは1987年、第9代「ミスアップ」グランプリを受賞します。『UP TO BOY』の公式プロフィールでもこの年の受賞が確認されており、1987年11月号では受賞後の初表紙を飾りました。
鈴木早智子さんは、その前の第7代「ミスアップ」グランプリ。のちにWinkを組む二人は、同じ誌面企画と縁を持ちながら、それぞれ別の時期に選ばれていました。
相田さん自身が後年、「ミスアップ」の受賞とWinkデビューをはっきり結びつけて振り返っています。
『ミスアップ』になれたことがWinkのデビューに繋がった
出典:アップトゥボーイ「アップトゥボーイ40周年特別企画【LEGEND INTERVIEW 】#01 相田翔子」(2026年3月23日)
高校卒業が近づくころには、芸能だけに進路を決め切っていたわけでもありません。相田さんは就職活動も始めていました。作詞・作曲を続けながら、社会へ出る別の道も現実の選択肢として考えていた時期です。
鈴木早智子との出会いからWink結成へ
進路が大きく動いたのは、ドラマの主題歌を歌う人を探すオーディションでした。当時それぞれ芸能活動をしていた相田翔子さんと鈴木早智子さんを組ませてみようという話が持ち上がり、二人だけがスタジオへ呼ばれます。
2人で歌った瞬間に声のバランスが一致
スタジオでは課題曲を二人で歌いました。相田さんによれば、そこで二人の声のバランスが驚くほど合い、話は一気にデビューへ進んだといいます。何度も長期間ユニットの相性を試した末の結成ではなく、実際に声を重ねたことが決め手になりました。
中学2年のオーディションでは体が固まって歌えず、高校2年ではソロデビュー曲を録音しながら学校との両立を優先して見送っています。それでも歌との縁は切れず、今度は一人ではなく、鈴木早智子さんと並ぶ形でデビューの話が現れました。
この時点で相田さんは高校卒業後の就職も考え始めていました。ところがWinkとして4月27日にデビューすることが決まると、それまで進めていた別の予定をやめ、歌手としての道へ進みます。
ひとりではないことに安心した相田翔子
デビュー決定を聞いた相田さんがまず感じたのは、「一人でステージへ出るわけではない」という安心でした。過去のオーディションや撮影でも、人前へ出た途端に強く緊張してきたからです。
ひとりじゃないと知ってうれしかったですね。
出典:LEON「美しい人、相田翔子。『Winkのキラキラはあの時にしか出せない宝物。だからそのまま残しておきたい』」(2025年6月14日)
鈴木さんとは、それまでオーディションで一度話した程度でした。それでも会った瞬間に似た温度感や空気を感じ、鈴木さんからも「私も人見知り」と聞いたことで、相田さんは「あの人となら心強い」と思ったそうです。
相田さんが憧れていたのは、もともと自分が前面に立つアイドル像より、詞や曲を作る音楽の仕事でした。けれど、同じように人見知りだという相手と声を重ねる形なら、長く抱えてきた「人前に出る怖さ」と向き合える条件がそろっていました。
18歳でWinkデビュー!「Sugar Baby Love」で最初のステージへ
1988年4月27日、相田翔子さんは鈴木早智子さんとWinkを結成し、1stシングル「Sugar Baby Love」でデビューしました。2月23日に18歳になったばかりで、高校を卒業した春のことです。
デビュー当時の二人は、自分たちがすぐ大きく売れるとは考えていませんでした。相田さんは後年、「記念に1曲残せたら」というほどの気持ちだったと語り、デビュー当日も二人ともそれぞれの実家で静かに過ごしています。
Wink公式の映像では、デビュー曲「Sugar Baby Love」の当時の姿を見ることができます。中学時代の失敗したと思ったオーディションから数年を経て、相田さんは一人ではなく、鈴木早智子さんと並んで歌手として歩き始めました。
泥だらけで帰った東村山の少女は、物語を書き、リングに憧れ、歌うと緊張で体を固くしながらも、音楽との接点を少しずつ増やしていきました。1988年4月27日、その先にあったのがWinkの最初の一曲でした。
のちに大ヒット曲を生む二人にも、デビューの日にはまだその未来は見えていません。相田翔子さんのアイドルとしての時間は、静かに過ごしたその春の日から始まります。



























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