おニャン子クラブ会員番号12番として知られ、グループから最初にソロデビューした河合その子さん。「涙の茉莉花LOVE」や、その後の「青いスタスィオン」を思い浮かべる人も多いでしょう。
テレビに登場した1985年春、その子さんはすでに高校を卒業し、専門学校で学びながら就職への道を進んでいました。しかも芸能界との最初の接点は、『夕やけニャンニャン』より2年も前にあります。
1983年にCBS・ソニーの「ティーンズ・ポップ」へ参加したあと、すぐ歌手になることなく学生生活へ戻り、就職先まで決まったころに再びオーディションの話が舞い込みました。
のちに過去の作品と向き合った河合その子さんは、昔のスタッフと再会したときの感覚をこんな言葉で表しています。
昔一緒に仕事をしていたスタッフと再会した瞬間、私は“後藤その子”ではなく、“河合その子”に戻っていました。
出典:AIKRU「河合その子はハーフ?若い頃の可愛い画像&今現在の活動まとめ」(公開日記載なし)
華やかなアイドル時代より前、その子さんはどんな少女だったのでしょうか。愛知で過ごした子ども時代から、専門学校生が会員番号12番になるまでを順番にたどります。
河合その子は愛知県東海市でどんな少女時代を過ごした?
河合その子さんは1965年6月20日生まれ。出身地は愛知県で、現在の東海市にあたる地域で育った人物として知られています。
アイドル時代の写真だけを見ると、静かでおっとりした少女時代を想像するかもしれません。ところが、本人が後年につづったエッセイには、もっと生活感のある子どものころの姿が残っています。
1990年の連載エッセイ「銀色タペストリー」では、自分の身の回りの出来事を文章にするのが昔から得意ではなかったと振り返っていました。
子供の頃から作文は嫌いで、自分の身の周りにあったこととか書くのが、そもそも苦手なんですよね。
出典:「『河合その子』1990年 TYO 銀色タペストリー(1)」(公開日記載なし)
同じ連載で夏休みを振り返った回には、川で遊んだ記憶も登場します。水が澄んで魚が見える川で遊び、流れがあるため深い場所へ行かないよう注意されながら、川べりで水遊びをしていたそうです。
盆踊りの夜店で見るかき氷にも、子どものころの夏を重ねていました。家で作ると同じような食感にならないという話まで書いていて、テレビの中のアイドルとはかなり違う、普通の夏休みの風景が見えてきます。
宿題は早々に片づけるタイプではありませんでした。新学期が迫ってから朝顔やヒヤシンスの観察日記、絵日記、自由研究に取りかかっていたという昔話も残っています。
川で遊び、夏休みの終わりが近づいてから宿題に追われる。河合その子さんの少女時代には、そんな身近な場面がありました。
河合その子の家族構成は?両親や実家について
河合その子さんの両親は一般の方で、氏名や職業など詳しい情報は広く公表されていません。兄弟姉妹についても、信頼できる公開資料だけで家族の人数を断定できるほどの情報は多くありません。
一方で、本人が後年につづった夏休みの思い出には母親が登場します。宿題をぎりぎりまで残していたその子さんに、母親が思わぬ形で手を貸していたようです。
小学生の時は母が絵を描いてました……バレバレでしたけど
出典:「『河合その子』1990年 TYO 銀色タペストリー(6)」(2020年7月8日)
絵日記を母親に手伝ってもらい、それを本人が何年もたってから笑いを交えて書いている。家族の日常を伝える資料が少ないなかでは、子どものころの家庭の空気が伝わる貴重な一場面です。
「河合その子 実家」で調べる人も多いですが、本人の昔をたどるうえで押さえておきたいのは具体的な住所ではなく、愛知県東海市周辺が原点だったということです。一般人である家族の住所や生活圏を推測する必要はありません。
河合その子の学歴は?小学校・中学校・高校から専門学校まで
河合その子さんは愛知で学校生活を送り、高校卒業後もすぐ芸能活動一本には進みませんでした。高校生のときに一度オーディションを経験しながら、その後は専門学校へ進学しています。
小学校時代は東海市周辺で過ごした
小学校については、東海市内で転校を経験したとする資料があります。ただし、現行の本人公式プロフィールには具体的な小学校名の記載がなく、学校名まで確定させるだけの一次情報は多くありません。
学校名以上に本人の言葉から見えてくるのは、夏休みの宿題や川遊びといった生活です。小学生のころから芸能活動をしていた子役ではなく、地元で学校へ通う時間が続いていました。
中学校名は資料によって記載が分かれている
中学校については、東海市内の学校を挙げる学歴資料がある一方、名古屋市内へ通学していたとする資料も見られます。
中学校名は公開資料によって記載が分かれるため、特定の学校名を断定しません。
少なくとも、この時期に芸能活動を本格化させていたという記録はありません。河合その子という名前がソニーのオーディション史に現れるのは、高校時代に入ってからです。
高校は日本福祉大学付属高等学校と紹介されている
出身高校は、日本福祉大学付属高等学校と複数の学歴資料で紹介されています。愛知県知多郡美浜町にある高校で、河合その子さんの出身校として名前が掲載されています。
高校時代のその子さんを語るときにたびたび登場するのが、松田聖子さんへの憧れです。当時のその子さんは松田聖子さんのファンで、その思いが高校3年のときのオーディション参加につながったと伝えられています。
ただ、この段階で「絶対にアイドルになる」と進路を一本に決めていたわけではありません。1983年に芸能界との接点が生まれても、卒業後には別の道を選びました。
高校卒業後はコンピューター系の専門学校へ
高校卒業後、その子さんはコンピューター系の専門学校へ進んだとされています。専門学校の正式名称は公表資料でははっきりしていません。
ここが、その子さんの経歴の面白いところです。高校時代にソニー系のオーディションを経験していたのに、そのまま芸能活動だけを追うのではなく、専門分野を学び、就職活動も進めました。
1985年春には就職先も決まっていたとする資料があります。テレビで毎日のように見かける存在になる直前まで、進もうとしていたのは一般企業へ就職する道でした。
高校3年の1983年にCBS・ソニー「ティーンズ・ポップ」へ
河合その子さんと芸能界の最初のはっきりした接点は1983年です。ソニー・ミュージックが公開している過去のオーディション記録には、この年の「ティーンズ・ポップ」からの輩出アーティストとして河合その子さんの名前が残っています。
「ティーンズ・ポップ」はヤングジャンプとのタイアップ企画で、ソニーの公式記録には楽器演奏が条件だったことも明記されています。いわゆる女性アイドルだけを選ぶオーディションとは少し性格が違いました。
後年のプロフィール資料では、その子さんはこのオーディションで準優勝したと紹介されています。高校生のうちにレコード会社の目に留まる経験をしていたことになります。
それでも、この結果がただちに歌手デビューへ結びついたわけではありませんでした。その子さんは高校を卒業し、専門学校へ進学します。
1983年のオーディションで生まれたソニーとの接点だけが残り、日常は学生生活へ戻る。ところが約2年後、その接点が思わぬ形でもう一度動きます。
就職内定後に届いた「夕やけニャンニャン」オーディションの話
1985年3月ごろ、専門学校で就職活動を終えたその子さんに、4月から始まるフジテレビの新番組『夕やけニャンニャン』のオーディションコーナーへ出てみないかという話が持ち込まれます。
高校時代の「ティーンズ・ポップ」を通じてソニーとの接点があったことが、この誘いにつながったとされています。
ソニーからの誘いにも気持ちは意外に軽かった
すでに就職へ向かっていたその子さんにとって、この話は人生を賭けた最後の挑戦という感覚ではなかったようです。当時の気持ちとして伝えられている言葉は、かなり肩の力が抜けています。
2日くらいで済むだろうから帰りに原宿行ってショッピングでもしよう
出典:アスネタ「河合その子の現在。旦那(後藤次利)との馴れ初めと引退。子供について」(公開日記載なし)
東京へ行き、オーディションを受け、ついでに買い物をする。そのくらいの気持ちで向かった先が、結果的には就職予定だった専門学校生の進路を大きく変える場所になりました。
城之内早苗と「受からない」と話して東京タワーへ
この日の様子は、同じくおニャン子クラブに入る城之内早苗さんが後年かなり具体的に語っています。
城之内さんは演歌志向で、その子さんは高校生ではありませんでした。周囲の参加者とは少し違う立場だった二人は、審査後に自分たちは合格しないだろうと思っていたそうです。
私たちは絶対にうからないよね。2度と会えないね
出典:芸団協CPRA PLAZA INTERVIEW 城之内早苗「デビュー20周年をむかえて」(2007年5月2日)
そこで二人は、東京へ来た記念に一緒に東京タワーへ登ってから別れました。
ところが二人とも合格。城之内さんは、その後に寮でその子さんと顔を合わせ、「二人とも受かっていて」驚いた思い出を語っています。
「もう会えない」と東京タワーへ行った二人が、今度はおニャン子クラブのメンバーとして再会しました。
河合その子がおニャン子クラブ会員番号12番になるまで
『夕やけニャンニャン』がスタートしたのは1985年4月。ポニーキャニオンにも1985年4月から6月までの番組初期映像をまとめた『夕やけニャンニャン おニャン子白書』が残っており、その子さんは番組草創期から登場したメンバーの一人でした。
番組内のオーディション「ザ・スカウト アイドルを探せ!」を通過したその子さんに与えられたのが、おニャン子クラブ会員番号12番です。
1985年4月、専門学校生から毎日テレビに出る生活へ
高校生が多かった初期のおニャン子クラブの中で、その子さんは専門学校へ進み、就職まで考えていた立場でした。1983年にはレコード会社のオーディションも経験しています。
そのため、まったく芸能界との接点がないところから突然選ばれたメンバーとは経歴が少し違います。一方で、すでに歌手としてデビューしていたわけでもありません。
学校を卒業して会社員になる予定だった生活から、生放送のテレビ番組へ出演する生活へ。1985年春、その子さんの日常は短期間で切り替わりました。
1983年のオーディション経験が2年後につながった
その子さんが会員番号12番になるまでを並べると、1983年の「ティーンズ・ポップ」と1985年の『夕やけニャンニャン』が別々の出来事ではなかったことが見えてきます。
高校時代にソニーのオーディションへ参加し、その後は専門学校へ進学。就職内定の時期に再び声がかかり、テレビのオーディションを受ける。この二度目の機会で、おニャン子クラブへの加入が決まりました。
会員番号12番になった時点で、その子さんはまだソロ歌手としてデビューしていません。しかし、そこから最初のソロシングルまでは長くありませんでした。
会員番号12番から「涙の茉莉花LOVE」へ
おニャン子クラブで活動を始めた河合その子さんは、1985年夏にはグループの一員として広く知られるようになります。
そして1985年9月1日、CBS・ソニーから「涙の茉莉花LOVE」を発売。ソニー・ミュージックの公式商品紹介でも、河合その子さんはおニャン子クラブからソロデビューしたトップバッターとして紹介されています。
加入から約5か月で最初のソロデビューへ
高校生のときにソニーの「ティーンズ・ポップ」へ参加した1983年から数えると、ここまで約2年。ところが、おニャン子クラブへの加入からソロデビューまではわずか数か月でした。
1983年にはすぐデビューせず、学校へ戻る。卒業後は専門学校へ進み、就職活動もする。それでも高校時代にできた接点が消えず、1985年になって『夕やけニャンニャン』へつながりました。
後年、ソニー・ミュージックの公式コンピレーションでも河合その子さんの楽曲は繰り返し収録されています。ソニー・ミュージック運営のotonano公式チャンネルが公開した昭和ヒット曲のトレーラーには、のちの代表曲「青いスタスィオン」も収められています。
長い空白のあとも「河合その子」という名前は残った
その後の活動や結婚、現在については別の時代の話になります。ただ、2009年の復刻盤や2010年のCM出演では、本人自身が昔の活動を振り返る機会がありました。
2010年、久しぶりに公の場へ姿を見せた際には、かつて毎日のようにテレビへ出演していた人とは思えないほど率直に緊張を口にしています。
約20年ぶりのお仕事であまりの緊張で言葉が出ません
出典:スポニチ「20年ぶり今回きり 伝説のアイドル復活」(2010年3月31日)
愛知で夏休みを過ごしていた少女が、高校3年でソニーのオーディションへ参加し、専門学校と就職活動を経て『夕やけニャンニャン』へ。1985年春に会員番号12番となり、同年9月には「涙の茉莉花LOVE」でソロデビューしました。
最初から一直線にアイドルを目指した経歴ではありません。東京へ向かうときには帰りの買い物まで考えていた専門学校生が、その数か月後には、おニャン子クラブから最初にソロレコードを出すメンバーになっていました。
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