キャンディーズの「ランちゃん」として親しまれ、俳優としても長く活動してきた伊藤蘭。ステージでは自然に視線を集める存在ですが、少女時代から人前に出ることが得意だったわけではありません。
小学生のころは鉄棒で遊び、ゴム跳びも好きな活発さがある一方、目立つことにはためらいがありました。歌手になりたいという明確な夢も、まだ持っていなかったと振り返っています。
中学3年の春、演劇部の友人に誘われて東京音楽学院へ応募したことが、芸能界への入口になりました。
そこからスクールメイツのレッスン、NHK番組のマスコットガールを経て、田中好子、藤村美樹と「キャンディーズ」として歩き始めます。最初からレコード歌手として集められた3人ではありませんでした。
伊藤蘭が自身の歩みを振り返るとき、華やかなデビューの日だけでなく、家族とテレビを見た時間や、中学校の演劇部、制服姿で通ったレッスンの日々が何度も登場します。
伊藤蘭は若い頃どんな少女だった?幼少期と昔の性格
10歳ごろの伊藤蘭は、学校では鉄棒をしたり、友人とゴム跳びをしたりして遊んでいました。毎週楽しみにしていたのは50円の『週刊少女マーガレット』。少女漫画を読むことも、日常の楽しみのひとつでした。
ゴム跳びをするお転婆な子でした
出典:済生会「伊藤 蘭 さん」(2017年6月)
体を動かして遊ぶことは好きでも、「将来は歌手になる」と考えていたわけではありません。のちに大勢の観客の前へ立つ姿からは少し離れた、近所の子どもたちと遊び、本を待ちわびる普通の小学生の日々がありました。
母と祖母とテレビを見て育った少女時代
家では、母や祖母とテレビを囲みました。まだ白黒テレビの時代で、ドラマを一緒に見ることが多く、少し成長すると海外ドラマ『ルーシー・ショー』や音楽番組にも親しむようになります。
よく母と祖母と一緒に白黒のドラマをみたり
出典:テレビ朝日「伊藤蘭とテレビ~後編~」(2026年3月15日)
『シャボン玉ホリデー』や『プラチナゴールデンショー』も見ていました。テレビの向こう側はまだ仕事の場所ではなく、家族と一緒に眺める娯楽の世界でした。
中学生になるころはグループサウンズが人気を集め、伊藤蘭もザ・タイガース、とりわけ沢田研二に夢中になります。下敷きに写真を入れて学校へ持っていき、先生に取り上げられたことまであったそうです。
引っ込み思案な自分を変えたかった
小学生時代の本人は、人前で目立つことが好きではない「引っ込み思案」な面も持っていました。中学校へ進んだとき、その自分を少し変えてみたいという気持ちから選んだのが演劇部でした。
舞台に立つことは、いきなり芸能界を目指す行動ではありません。学校という小さな場所で、人と一緒に何かを作り、観客の前へ出る経験を重ねる最初の一歩でした。
伊藤蘭の家族構成は?実家・父親・母親・兄弟と家系
伊藤蘭の少女時代をたどると、父方には広島と深いつながりを持つ家系があり、母方には洋裁の技術を受け継いだ家族の歴史があります。現在の芸能一家とは別に、本人が育った家庭にもいくつもの物語がありました。
伊藤蘭の実家は金持ち?曽祖父と家系の歴史
父方の曽祖父・伊藤貞次は官僚として働き、のちに第15代広島市長を務めた人物です。若いころから裕福だったわけではなく、厳しい環境から職を得て歩みを進め、その後に財を築いたと伝えられています。
曽祖父の息子にあたる祖父・太郎は、その時代の家の豊かさの中で育ちました。油絵を好み、画家として使っていた雅号が「伊藤蘭」だったことを、本人はNHK『ファミリーヒストリー』で初めて知っています。
2013年に広島市を訪れた際には、曽祖父・貞次の写真を見た伊藤蘭が「兄にそっくり」と驚いたことも報じられました。一般人である兄の詳しい生活は公表されていませんが、兄がいることは本人の発言から確認できます。
父方には曽祖父が財をなし、祖父が裕福に育った時代がありました。一方、蘭自身が育った家庭では母が結婚後も一家を支えたと紹介されています。家系の裕福さと少女時代の家計は分けて見る必要があります。
洋裁の技術を持つ母と家庭で過ごした時間
母方の祖父は洋服を仕立てる技術を持ち、大きな火災で生活基盤を失ったあとも仕事を立て直した人物でした。その技術や生活力は、娘である伊藤蘭の母にも受け継がれています。
母は洋裁の技術を生かし、結婚後も家庭を支えました。幼い蘭にとっては、母と祖母が身近にいて、一緒にテレビを見る時間が日常にある家庭でした。
父は理系の分野に進み、先端技術に関わる研究に携わったと家族史で紹介されています。戦争によって進路や人生が変わった世代でもあり、父母それぞれが自分の仕事を持ちながら家庭を築いていました。
芸能活動では「伊藤蘭」の名を一貫して使っています。のちに俳優の水谷豊と結婚し、娘の趣里も俳優となりますが、アイドルになる以前の生活で日々をともにしていたのは、こうした父母や兄、祖母たちでした。
伊藤蘭の学歴は?中学・高校・日本大学芸術学部まで
学校生活のなかで大きかったのは、中学で入った演劇部です。その後は日本大学第二高等学校へ進み、1973年3月に卒業。翌4月には日本大学芸術学部演劇学科へ進学しました。
中学の演劇部で台本を作り、舞台発表を目指した
演劇部では、用意された脚本をただ演じるだけではありませんでした。仲間と「どんな話にするか」から考え、ストーリーを台本に起こし、当時の印刷方法であるガリ版を切って作品を形にしていきます。
演劇部での活動は、とても楽しかったです。
出典:ESSEonline「デビュー50周年の伊藤蘭さん。『キャンディーズの活動当時はヘアもメイクも自前だった』」(2023年12月21日)
学校内の行事だけでなく、区や東京都の大会で作品を発表することも目標にしていました。演じることと同時に、仲間と相談し、ひとつの舞台をゼロから作る時間そのものを楽しんでいた中学生でした。
この演劇部には、のちに芸能界への入口を作る友人もいました。部活動の仲間との何気ない会話が、学校の外にある東京音楽学院へつながっていきます。
日本大学第二高校から日本大学芸術学部へ
中学卒業後は日本大学第二高等学校へ進学しました。このころにはスクールメイツとしてのレッスンやテレビの仕事も始まり、学校と芸能活動を行き来する生活になっていきます。
高校卒業後の1973年、日本大学芸術学部演劇学科へ進学します。大学の公式サイトでも「卒業生の活躍」の演劇学科欄に、演出コースの人物として伊藤蘭が掲載されています。
同じ1973年は、キャンディーズがレコードデビューする年でもありました。大学で演劇を学ぶ時期と、3人組として仕事が大きく動き始める時期が重なっていました。
友人のひと言でスクールメイツへ
中学3年の春、演劇部の友人・根本喜代美さんから声をかけられます。誘われたのは、渡辺プロダクションが運営していた東京音楽学院のスクールメイツでした。
伊藤蘭はテレビでスクールメイツを見たことがあり、おそろいのトレーナーや白いスコート、ポンポンを持って踊る姿を知っていました。友人と一緒なら、という感覚もあり、2人で応募します。
根本喜代美さんに誘われ東京音楽学院へ応募
応募した2人はそろって合格しました。春から東京音楽学院へ通い、伊藤蘭はスクールメイツの一員として歌とダンスの基礎を身につけていきます。
もともと私は、自分から積極的に人生を切り開いていくほうではありません。
出典:婦人公論.jp「伊藤蘭『キャンディーズ時代苦手だった歌に、50周年で再び向き合って。夫・水谷豊も〈蘭さんは、蘭さんのペースで〉と背中を押してくれた』」(2024年2月15日)
その後、スクールメイツで出会ったマネージャーからキャンディーズにつながる選考へ声をかけられます。自分一人で芸能事務所の門を叩いたのではなく、学校の友人と、そこで出会った大人が次の入口を作りました。
制服のまま中央線で新橋のレッスンへ
中学校の授業が終わると、そのままレッスンへ向かう日もありました。当時13~14歳ほど。中央線に乗って新橋へ行き、週3~4回、出演前など忙しい時期にはほぼ毎日のように東京音楽学院へ通います。
制服のまま中央線に乗って新橋向かうこともありました
出典:Re:minder「伊藤蘭インタビュー 第2回『振り付けはキャンディーズ以前、中学生のスクールメイツ時代に基礎を学びました』」(公開日記載なし)
制服のまま中央線に乗り、新橋のレッスンへ。 学校生活の延長にあったその移動が、歌や踊りを仕事にするための時間へ少しずつ変わっていきました。
スクールメイツでは、振付師・西条満らの指導のもとで基本を繰り返しました。キャンディーズの舞台で見せた動きの土台は、レコードデビューより前の中学生時代に作られていたのです。
後年、伊藤蘭はテレビ番組でキャンディーズ時代の映像を振り返る機会もたびたび持っています。2023年のNHK『SONGS』出演時にも、本人の公式Instagramで「懐かしの映像」に触れていました。
スクールメイツからキャンディーズ結成へ
スクールメイツに入ってから約3年。伊藤蘭に、NHKの新しい歌番組『歌謡グランドショー』のマスコットガールを選ぶ話が届きます。
選考の結果、伊藤蘭、田中好子、藤村美樹の3人が選ばれました。田中好子は伊藤蘭と同じ年にスクールメイツへ入り、藤村美樹はその1年後に加わった仲間でした。
NHK「歌謡グランドショー」のマスコットガールに
1972年4月、3人は番組のマスコットガールとして活動を始めます。これが伊藤蘭にとって、キャンディーズとしての本格的な活動開始にあたります。レコードデビューは翌1973年で、2つの時期は同じではありません。
番組の中では「今月の歌」を歌うことがあり、歌手の後ろで踊る場面もありました。少女時代にテレビ越しで憧れ、学校へ写真を持っていった沢田研二の後ろで踊ったときには、さすがに緊張したと振り返っています。
キャンディーズの記憶を語るとき、伊藤蘭にとって日比谷野外音楽堂も特別な場所として残りました。50周年を迎えた2023年にも、本人は公式Instagramで「あの野音」に再び立つことを伝えています。
番組プロデューサーが「キャンディーズ」と命名
3人組として動き出す前、自分たちでもグループ名を考えました。「ヴァイオレッツ」「トリコロール」など、いくつかの候補を出したと本人は記しています。
最終的に番組プロデューサーの矢島敦美から告げられた名前が「キャンディーズ」でした。「食べてしまいたいくらいかわいい女の子たち」というイメージを込めた名前で、本人たちは最初、少し気恥ずかしく感じたそうです。
こうして3人にはグループ名がつきましたが、まだ「新曲を出す歌手グループ」として始まったわけではありません。番組を支えるマスコットガール兼アシスタントとして、ステージの表と裏の両方を経験していきます。
伊藤蘭がアイドルになるまで!1973年「あなたに夢中」でデビュー
『歌謡グランドショー』での3人の仕事は幅広いものでした。歌ったり踊ったりするだけでなく、出演者のために椅子やマイクを運ぶこともありました。
本番前の音合わせに歌手本人が来られないときは、3人が代わりに歌うこともありました。プロの歌番組の現場で、客席からは見えない準備まで経験する毎日です。
椅子やマイクを運んだ番組アシスタント時代
番組には毎週さまざまな歌手が出演します。スクールメイツで基礎を身につけていた3人は、バックで踊り、必要なら音合わせで歌い、放送を成立させるための役割を一つずつこなしました。
レコードを出す前から視聴者には「キャンディーズ」として知られるようになり、ファンも少しずつ増えていきます。3人を応援する声が届くにつれ、本人たちの中にも新しい気持ちが生まれました。
「自分たちの曲を歌いたい」からレコードデビューへ
いつか自分たちの曲が歌いたいな
出典:文春オンライン「《紅白出場》50周年の『キャンディーズ』伊藤蘭が語る“グループ誕生秘話”『とても可愛らしくて、目立つ存在でした』」(2023年12月31日)
その願いが形になり、CBS・ソニーからデビューすることが決まります。デビュー曲は「あなたに夢中」。1973年9月1日に発売され、キャンディーズはレコード歌手として新しいスタートを切りました。
当時の「あなたに夢中」の映像には、マスコットガールから歌手へ踏み出したころの3人が残っています。
デビュー時には「内気なキャンディーズ」というキャッチフレーズも使われました。3人とも比較的おとなしいタイプだったことが、その言葉にも重なっていました。
キャンディーズのデビュー50周年を迎えた2023年末には、Sony Music系の公式アカウントから紅白歌合戦のスペシャルメドレー出演も告知されました。
50周年ツアーのステージも、本人の公式Instagramに残されています。十代で初めて「キャンディーズ」の名を受け取ったころとは時代も立場も違いますが、その曲を本人が再び歌う場所へつながっています。
1973年9月1日、「あなたに夢中」が発売され、キャンディーズはレコード歌手としてスタートしました。番組のマスコットガールだった3人が、ようやく自分たちの曲を持った日です。
その名前と歌は50年以上後のステージにも残り、伊藤蘭は現在もキャンディーズの楽曲を歌い継いでいます。


























コメントを残す