おニャン子クラブの会員番号16番として人気を集め、岩井由紀子との「うしろゆびさされ組」、さらにソロ歌手としても活動した高井麻巳子。
テレビの中では落ち着いた雰囲気を持つアイドルとして知られましたが、芸能界に入る少し前まで暮らしていたのは福井県。高校を卒業したときに考えていた進路も、アイドルとはまったく別の方向でした。
高校卒業後の高井麻巳子は、美術大学への進学を目指して福井から東京へ出ています。
その東京で『夕やけニャンニャン』の企画と接点を持ち、オーディションを受けることになりました。福井で学校生活を送っていた少女が、ほどなく全国放送のテレビ番組に出演するアイドルへと変わっていきます。
高井麻巳子がどんな少女時代を過ごし、どのような進路を考え、会員番号16番になるまでに何があったのか。デビュー前から順にたどります。
高井麻巳子は昔どんな少女だった?福井県小浜市で過ごした子ども時代
高井麻巳子は1966年12月28日生まれ、福井県小浜市出身です。芸能活動を始めるまでの生活の中心は福井にありました。
後年のプロフィール資料では、小学生のころから体を動かすことが得意だったと紹介されています。とくに走ることが速く、かけっこでは上位になることが多かったという記録が残っています。
小学生時代は走ることが得意だった
アイドル時代の高井麻巳子には、おっとりした印象を持つ人も多かったかもしれません。しかし、子どものころの記録をたどると、運動が苦手だった少女というわけではありません。
学校のかけっこでは足の速さを見せていたとされ、のちに中学校で選んだ部活動も運動部でした。テレビに出るずっと前には、校庭を走る普通の少女としての日々がありました。
中学ではソフトボール部へ
中学生になるとソフトボール部に所属します。常に中心選手だったという単純な話ではなく、レギュラーをめぐって苦戦することもあった一方、足の速さを生かして試合に出ることがあったと伝えられています。
華やかな芸能活動とはまだ接点のない時期です。部活動をしながら学校へ通い、福井で学生生活を送っていました。
海や本、美術にひかれた少女時代
高井麻巳子が後に残した言葉を見ると、運動だけでなく、本を読んだり、絵を描いたりする時間にも関心を持っていたことが分かります。
1986年冬の日記では、海を前にした自身の気持ちを短い言葉で残していました。
冬の海が一番好き
出典:『DUNK』1987年1月号「麻巳子の日記」掲載資料アーカイブ(公開日記載なし)
小浜市は日本海に面した町です。ただし、この発言をそのまま故郷の海の思い出と結びつける本人の説明までは残っていません。高井自身が海にひかれる言葉を残していた、というところまでが確認できる事実です。
高井麻巳子の家族構成は?実家や4人姉妹の家庭
高井麻巳子は4人姉妹の家庭で育ちました。実家が福井県で自転車店を営んでいたことは、おニャン子クラブの楽曲「会員番号の唄」でも本人を紹介する材料として使われています。
実家は福井県の自転車店
「会員番号の唄」は、それぞれのメンバーの特徴を短く紹介していく楽曲です。高井のパートには、福井県の実家、4人姉妹、自転車店という家庭背景が盛り込まれました。
作られたアイドル設定だけではなく、実際の家族背景を素材にした自己紹介だったため、福井出身というイメージはおニャン子クラブ時代にも広く知られることになります。
東京で芸能活動を始めても、高井麻巳子を語るときには「福井から出てきた女の子」という原点が繰り返し登場しました。
4人姉妹の中で育った高井麻巳子
4人姉妹の次女とされ、姉の一人である高井雅代は、ダンスチーム「Dee-Dee」で活動していました。高井麻巳子が歌手として『夜のヒットスタジオ』に出演した際には、姉がダンサーとして番組に関わっていることが話題になったこともあります。
ただし、高井が芸能界へ入った直接のきっかけは、家族が芸能活動を強く勧めたというものではありません。高校卒業後に東京へ向かった目的は、まず美術方面への進学でした。
高井麻巳子の学歴は?若狭高校から美大を目指して上京
学生時代から芸能活動をしていたわけではありません。高井麻巳子は福井県立若狭高等学校へ進み、1985年に高校を卒業しています。
福井県立若狭高校で過ごした高校時代
高校時代については、目立つ言動をするタイプではなかった一方、明るく友人が多かったと紹介した当時資料があります。「ミス若高」と呼ばれていたという記録も残っています。
このころには芸能界へ進む具体的な計画より、美術への関心のほうが進路として現実的でした。後に本人も、もし芸能の仕事をしていなかったら選びたかった道について語っています。
もしも、今のお仕事をしていなければ、美術のほうに進みたいと思っていたの。
出典:雑誌資料アーカイブ「高井麻巳子資料」(公開日記載なし)
器用にすばやく絵を仕上げるというより、絵の具で色を付ける時間が好きだったとも話しています。芸能界入り前の進路として美術大学を考えていたことは、後から作られたイメージではなく、本人の関心とつながっています。
アイドルではなく美術方面への進学を考えていた
高井は高校を卒業すると、美術大学への進学を目指して上京しました。東京で予備校に通うための新しい生活が始まります。
本を読むことも好きだったようで、当時の文章には、作品からさまざまな人生に触れていたことが記されています。歌手や女優といった職業別の目標とは少し違う言葉を残していました。
一人の人間としてもっと素敵になりたいな
出典:雑誌資料アーカイブ「高井麻巳子資料」(公開日記載なし)
高校卒業時点の高井にとって、東京は芸能人になるためだけの場所ではありませんでした。絵を学ぶために故郷を離れ、新しい進路へ進もうとしていた時期です。
女子美術短期大学をめぐる経歴には表記の違いもある
高井麻巳子の学歴では、女子美術短期大学の名前が挙げられることがあります。ただし、後年の人物資料には「卒業」と「中退」の両方の記載があり、経歴が一致していません。
一方、高校卒業後に美術大学への進学を考えて上京したことは複数の資料で一致しています。おニャン子クラブとの出会いは、その上京後まもなく訪れました。
原宿で声をかけられ『夕やけニャンニャン』のオーディションへ
1985年春、高井麻巳子の進路を大きく変える出来事がありました。場所は東京・原宿です。
当時放送されていたフジテレビ系『夕やけニャンニャン』には、「ザ・スカウト アイドルを探せ!」というオーディション企画がありました。番組上では、原宿を歩いていた高井に伊藤克信が声をかけ、企画へ参加する流れになっています。
美大を目指していた東京生活に突然現れたテレビの話
上京したばかりの高井がもともと描いていた進路は美術方面です。そこへ突然、テレビ番組のオーディションという選択肢が入り込みました。
後年、この原宿での場面については番組上の演出を含んでいたという説明も出ています。そのため「街で偶然発見され、その場で芸能界入りが決まった」と単純化するより、番組のスカウト企画を経てオーディションへ進んだ、と見るのが自然です。
「青い珊瑚礁」を歌い117点で合格
オーディションで高井が選んだ曲は、松田聖子の「青い珊瑚礁」でした。記録では117点を獲得して合格しています。
その結果、1985年4月26日におニャン子クラブへ加入。会員番号は16番になりました。USENのメンバー資料にも、会員番号16番・加入日1985年4月26日と記録されています。
おニャン子クラブの加入記録はUSEN「おニャン子クラブメンバー一覧」でも確認できます。
高校を卒業して福井から東京へ出てから、まだ長い年月が経ったわけではありません。美術を学ぶために始めた東京生活の途中で、テレビに出る日々が始まりました。
会員番号16番・高井麻巳子がおニャン子クラブで歩き始める
会員番号16番になった高井麻巳子は、『夕やけニャンニャン』への出演を重ねるようになります。福井で高校生活を送っていたころとは、生活のペースそのものが変わりました。
番組には多くのメンバーが在籍し、それぞれに会員番号と個性がありました。その中で高井の福井出身という背景や、落ち着いた雰囲気も本人を覚えてもらう要素になっていきます。
岩井由紀子と「うしろゆびさされ組」を結成
加入から数か月後、高井にはおニャン子クラブ本体とは別の活動が加わります。会員番号19番の岩井由紀子と2人で「うしろゆびさされ組」を結成しました。
ポニーキャニオンの公式資料でも、うしろゆびさされ組は高井麻巳子と岩井由紀子によるおニャン子クラブ内ユニットと紹介されています。テレビアニメ『ハイスクール!奇面組』の主題歌を担当し、1985年秋から2人での活動が始まりました。
高井と岩井は見た目や雰囲気にも違いがあり、その組み合わせそのものがユニットの個性になりました。ユニット名は当初「キウイ組」という案もあったものの、最終的には楽曲タイトルと同じ「うしろゆびさされ組」になったとされています。
芸能活動が始まった後も、高井が残した文章には派手な自己演出とは少し違う言葉が見られます。仕事の合間の友人との時間について、当時の取材ではこんな場面を話していました。
それで撮影会の合間には、みんなで「好きな人いるの?」なんて話してました
出典:『週刊少年サンデー』1987年7月8日号掲載資料アーカイブ(公開日記載なし)
テレビや撮影の仕事が増えた一方、その合間には同世代の女の子同士で話をしていた時間もありました。
斉藤由貴との交流で見えた素顔
高井はアイドル活動の中で、別の芸能人とも親しくなっていきます。映画『恋する女たち』で共演した斉藤由貴とは特に気が合ったようで、斉藤も後年の集英社のインタビューで高井との交流を振り返っています。
高井自身も著書の中で、斉藤の前では気を張らずにいられるほど親しかったことを、かなり具体的な表現で書いています。
由貴ちゃんの前だったら鼻をかんでも、おへそを出したまま寝ても平気なほど仲良し
出典:高井麻巳子『高井麻巳子 ハローほほえみメッセージ』(引用紹介:高井麻巳子)(公開日記載なし)
おニャン子クラブの中だけでなく、映画や歌番組を通じて同世代の芸能人との交友も広がっていきました。
雑誌に残った高井麻巳子自身の言葉
1986年の『BOMB!』では、仕事や結婚観についてのインタビューも掲載されました。その中には、当時の高井らしい少し大胆な表現も残っています。
好きな人と一緒に逃げるような恋がしたいの
出典:Tokyo Girls’ Update「When Idols Suddenly Retire One Day to Get Married」(原典:『BOMB!』1986年8月号、2017年6月)
この発言が残された1986年には、すでに高井はおニャン子クラブだけでなく、うしろゆびさされ組、そしてソロ歌手へと活動の幅を広げていました。
「シンデレラたちへの伝言」でソロデビュー
1986年6月25日、高井麻巳子は「シンデレラたちへの伝言」でソロデビューしました。作詞は売野雅勇、作曲は八田雅弘。おニャン子クラブやうしろゆびさされ組とは違う、ゆったりした曲調の作品でした。
ニッポン放送の音楽史記事によると、同曲はソロデビュー曲としてヒットし、7月7日付のチャートで1位を獲得しています。
「シンデレラたちへの伝言」のリリース当時については、ニッポン放送 NEWS ONLINEにも詳しい記録が残っています。
少し前まで福井で高校生活を送り、美術大学への進学を考えていた少女は、上京した1985年春にテレビ番組のオーディションと出会いました。
そこから会員番号16番となり、岩井由紀子とのうしろゆびさされ組を経て、翌年には自分の名前でレコードを出すことになります。高井麻巳子のアイドルとしての原点は、芸能界を目指して準備していた少女ではなく、美術を学ぶために福井から東京へ出てきたところから始まっていました。


























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