≠MEでセンターポジションを担い、歌声でも存在感を見せてきた冨田菜々風さん。ステージに立つ現在の姿からさかのぼると、原点には鹿児島で始めたダンスがあります。
3歳のころ、姉についてダンスを習い始めました。祭りやイベントに出演し、人前で踊る経験を重ねるうちに、ステージそのものが身近な場所になっていきます。
ステージへの入口は、3歳のとき姉について始めたダンスでした。
その後は鹿児島でアイドル活動を経験し、オーディションへの挑戦と不合格を何度も繰り返しました。≠MEにたどり着くまでには、幼いころから続いたダンス、家族との日常、学校生活、地元でのステージが重なっています。
鹿児島県出身として知られていますが、幼いころから長く関わったダンス指導者は、冨田さんを「霧島市の隼人町から」送り出した教え子として振り返っています。出生地として公式に確認できるのは鹿児島県であり、隼人は少女時代の生活圏を知る手がかりとして見ておくのが自然です。
冨田菜々風の生い立ち!鹿児島・隼人と3歳から続けたダンス
冨田菜々風さんは2000年7月17日生まれ。公式プロフィールでは鹿児島県出身、公式の生誕特設ページでは出生地も鹿児島県とされています。
幼いころの生活をたどると、早い時期から音楽とステージが日常に入っていました。本人が後年たびたび語っているのが、3歳で始めたダンスです。
姉について3歳からダンスを始めた
きっかけは姉でした。姉が通うダンスに一緒についていき、自分も習い始めます。地元の祭りやイベントにも出演し、踊ったあとに観客から声を掛けてもらう経験が、ステージを楽しい場所へ変えていきました。
「3歳のときにお姉ちゃんと一緒にダンスを習い始めて」
出典:ARNE「かわいいだけじゃない“ギャップ”が魅力!『≠ME』谷崎早耶さん、冨田菜々風さんに独占インタビュー【私の推しごと#5】」(2024年1月14日)
3歳から指導してきたダンス講師の樹山かよさんも、冨田さんを幼いころから見てきた教え子として紹介しています。姉だけでなく妹も同じ教室に通い、三姉妹がダンスに触れる家庭でした。
姉とプリキュアを見て遊んだ幼少期
ダンス以外の幼少期には、姉とテレビアニメ『プリキュア』を見る時間もありました。放送の日を楽しみにし、変身セットを着て遊び、ポルンのタッチコミューンやカードを集めていたと振り返っています。
「プリキュアは、姉と毎週テレビで見るのを楽しみにしていました。」
出典:コミックナタリー「『プリキュア』ダンスを私立恵比寿中学、≠ME、BEYOOOOONDSが踊る!1000回放送記念で」(2024年5月27日)
姉は、ダンスを始めるきっかけにも、好きな作品を一緒に楽しむ相手にもなっていました。
小さいころの夢はトリマー
ステージに立つ機会が早くからあっても、幼いころから芸能界だけを目指していたわけではありません。子どものころの将来の夢として本人が挙げているのは、動物に関わる仕事でした。
「トリマーになりたかった!」
出典:KING RECORDS TODAY「【スマホで答えて】≠MEに一問一答インタビュー」(2022年11月25日)
ダンスは続けながら、学校へ通い、姉妹と過ごし、テレビや遊びを楽しむ。のちにアイドルへ進む道は、この時点ではまだ一本に決まっていませんでした。
冨田菜々風の家族構成は?父親・母親・姉・妹との関係
家族との日常で特徴的なのは、三姉妹とダンスの結びつきです。幼い冨田さんを長く指導した樹山かよさんによると、姉・冨田さん・妹の三姉妹がそろって教室に通っていました。
三姉妹全員が同じダンス教室へ
最初にダンスをしていたのは姉で、冨田さんはその後を追う形で3歳からスタートしました。妹も同じ教室の生徒になり、家族の中にダンスの予定がある生活が長く続きます。
姉の影響は、中学生になってからも別の形で現れます。姉が買っていたファッション誌を読むようになり、誌面に載るモデルや華やかな世界を見たことが、芸能界を意識する入口になりました。
両親が送迎や衣装準備を支えたダンス生活
ダンス教室の指導者は、両親とも約15年にわたる付き合いがあったと記しています。レッスンやステージへの送迎、衣装の準備など、子どもたちが踊るための実務を両親が担っていました。
地元のテレビ番組では、家族そろって温泉が好きだったという話もしています。桜島の足湯を訪れた際に語ったもので、鹿児島で家族と過ごした休日の一端が見えるエピソードです。
大人になってからも妹との日常は続き、本人公式Instagramには妹が撮影した写真も投稿されています。
上京後に母へ「洗剤どれくらい?」と電話
≠ME加入後、鹿児島を離れて東京で暮らし始めると、家族にしてもらっていたことの多さを実感します。地元では母親が洗濯や食事をしてくれていたため、一人で洗濯しようとしたとき、洗剤の量さえ分からなかったそうです。
「洗剤をどれくらい入れたらいいの?」
出典:タウンワークマガジン「冨田菜々風(≠ME)インタビュー『オーディションに何度落ちても、なりたい自分をイメージし続けてきました』」(2021年4月6日)
片づけにも苦戦し、鹿児島へ帰りたいと思うこともあったと話しています。家族と暮らしていた日常から、一人で生活を回す毎日へ変わったのは、加入直後の大きな環境変化でした。
冨田菜々風の学歴は?鹿児島城西高校と学生時代
高校は鹿児島城西高等学校。学校法人日章学園の卒業生紹介に、平成31年卒業の冨田菜々風さんが≠ME所属として掲載されています。高校では芸術文化コースに在籍していました。
小学校・中学校の具体的な校名は、公表された高信頼資料で確定できるものに絞ると特定できません。推測した学校名は掲載しません。
中学生で姉の雑誌を読み初めてオーディションへ
芸能界を意識したのは中学生のころです。姉のファッション誌を読み、モデルが海外で撮影するページなどを見て、自分も華やかな世界へ行きたいと考えるようになりました。
初めて応募したオーディションは書類審査で不合格。その後もモデルや女優に憧れながら応募を続け、アイドルの審査にも目を向けていきます。歌やダンス、演技、モデル活動まで幅広くできる存在として、アイドルへの関心が強まりました。
鹿児島城西高校・芸術文化コースで過ごした高校時代
鹿児島城西高校では芸術文化コースに在籍。2018年2月には「ヒューマンアート・ライブコンテスト」に宇治野愛梨さんとのペアで出演し、協会賞と審査員特別賞を受賞したことが学校公式資料に残っています。
高校在学中も、学校の外ではステージ活動とオーディションへの挑戦が続いていました。芸能界に進みたい気持ちはありましたが、結果が出ない期間も長く、高校3年まで何度も不合格を経験します。
進路を考える時期には、高校の先生から「なりたい自分をイメージするといい」と声を掛けられたことも後年明かしています。オーディションで結果が出ない間も、ステージに立つ自分を頭の中で思い描きながら応募を続けていました。
人前で発表するのが苦手だった学生時代
ステージでは踊っていた一方、学校の授業では自分から発表することを避けていたと本人は話しています。「間違っているかもしれない」と考え、手を挙げることに慎重になる生徒でした。
学校では校則もきちんと守る側で、目立って自分の意見を押し出すタイプではなかったと振り返っています。舞台上での表現と、教室での振る舞いには違いがありました。
鹿児島でSeven Colorsとしてステージに立った少女時代
≠MEより前、冨田菜々風さんは鹿児島のご当地アイドル「Seven Colors」で活動していました。幼いころからのダンスだけでなく、グループの一員として人前に立つ経験を積んだ時期です。
3歳から冨田さんを知るダンス指導者も、Seven Colorsでの活動を本人にとって大きな経験だったと振り返っています。2015年2月には当時のステージ映像で新メンバーとして確認でき、14歳ごろには地元アイドルとして活動していました。
ダンスからご当地アイドルの活動へ
ダンスの発表会とは違い、アイドルグループでは歌や振り付けだけでなく、メンバーと一緒にステージを作ります。中学から高校にかけて、地元でその経験を重ねていきました。
この時期も全国の芸能界へ進むためのオーディションを並行して受けています。Seven Colorsでステージに立つことと、さらに先へ進みたい気持ちは同時に存在していました。
学校生活とステージ活動を続けた時期
鹿児島での学生生活では、アミュプラザ鹿児島へよく出掛けていたと本人が地元番組で話しています。のちのロケでは観覧車「アミュラン」に乗り、好物の甘いものとしてパフェも楽しみました。
ステージ以外では、自宅で愛犬と過ごすような日常も本人公式Instagramに残っています。華やかな活動だけでなく、家でゆっくり過ごす時間も本人の投稿から見える一面です。
高校卒業を控えるころには、オーディションを受けられる年齢の上限も意識するようになります。地元で積んだ経験があっても、全国の審査では結果が出ない時期が続きました。
何度落ちてもオーディションを受け続けた高校時代
中学生で初めて応募してから、高校時代までオーディションへの挑戦は続きました。書類審査で終わることもあれば、審査が進んでも合格に届かないこともありました。
高校3年になると、「何歳まで受けられるのだろう」と年齢制限も気になるようになります。どうしても受かりたい審査があり、それを最後のつもりで受けました。
モデルや女優の世界に憧れた中学生
最初の憧れはモデルや女優でした。自分はアイドルという雰囲気ではないと思っていた時期もありましたが、オーディション情報を見る中で、アイドルが歌やダンス以外にも幅広い仕事をしていることを知ります。
幼いころから続けてきたダンスを生かせることもあり、受けるジャンルを広げていきました。それでも合格は簡単には届きませんでした。
高校3年で「最後」と決めたオーディションも不合格
高校3年で受けた大切なオーディションにも落選します。本人は後年、そのときのことを「最後というつもり」だったと振り返りました。
「これが最後というつもりで受けたんですけど、やっぱり落ちてしまって。」
出典:タウンワークマガジン「冨田菜々風(≠ME)インタビュー『オーディションに何度落ちても、なりたい自分をイメージし続けてきました』」(2021年4月6日)
この高校3年時のオーディションを「坂道合同オーディション」とする情報も見られますが、本人が名称を明言した一次インタビューでは「どうしても受かりたいオーディション」までしか語られていません。
=LOVE姉妹グループの募集を知る
落選後、「もうダメだ」と思っていた時期に知ったのが、指原莉乃さんがプロデュースする=LOVEの姉妹グループオーディションでした。もう一度だけ挑戦しようと応募します。
何度も不合格を経験したあとに受けた、最後のつもりのもう一度が≠MEへの入口になりました。
≠MEオーディション合格!鹿児島から東京へ
=LOVE姉妹グループオーディションの最終審査は2019年1月26日。冨田さんはここで合格し、同年2月24日に≠MEのメンバーとしてお披露目されました。
鹿児島で何度も受けてきた審査とは違い、最後の挑戦では過去の失敗も経験として使えたといいます。大勢の前で緊張することにも慣れ、歌とダンスの手応えも変わりました。
霧島神宮で合格祈願
地元・鹿児島の番組で本人が訪れた霧島神宮は、≠MEのオーディションを受けた際に合格祈願をした場所でもあります。鹿児島を離れる前の挑戦に、地元の神社で願を掛けていました。
歌もダンスも過去一番の手応え
不合格を重ねたことで、審査会場の空気や緊張との付き合い方は少しずつ身についていました。≠MEにつながる審査では、本人自身が歌もダンスもそれまでで一番できたと感じています。
2019年2月24日のお披露目後、鹿児島から東京へ生活の拠点を移します。地元では2両ほどの電車に慣れていたため、東京の路線の多さにも戸惑ったと話しています。
上京して初めて知った一人暮らしの大変さ
東京では、乗り換えだけでなく家事も一から覚えることになりました。洗濯や片づけ、食事など、鹿児島の実家では家族に頼っていたことを自分でやる毎日が始まります。
アイドルになれた瞬間だけで生活が完成したわけではなく、加入と同時に故郷を離れ、暮らしそのものを作り直す必要がありました。
初期≠MEでセンターへ!最初のステージからメジャーデビューまで
≠MEとしての最初の大きなステージは、2019年8月4日のTOKYO IDOL FESTIVAL 2019。SMILE GARDENで=LOVEの楽曲を含むセットを披露し、オリジナル曲「≠ME」もパフォーマンスしました。
「大きなステージでいいスタートが切れたので良かったです。」
出典:ACTRESS PRESS「指原莉乃プロデュースの新アイドルグループ『≠ME』(ノットイコールミー)、『TIF 2019』にて初パフォーマンス!」(2019年8月5日)
鹿児島の祭りやイベントで踊っていた少女は、東京のアイドルフェスで≠MEのメンバーとして観客の前に立ちました。
指原莉乃から突然告げられたセンター
グループ加入後、指原莉乃さんからセンターを任されることを告げられます。本人は以前からセンターへの憧れを持っていましたが、実際に任されると、自分に務まるのかという不安も強く感じました。
それまでダンスでは後ろの位置になることも多く、前に立ってメンバーを背負う感覚には慣れていませんでした。周囲に支えられながら、センターとして歌と表現を磨いていきます。
初MVでは何度も撮り直して涙
最初のオリジナル曲「≠ME」のMV撮影では、不安に負けて何度も撮り直し、泣いてしまったこともあったと本人は振り返っています。次の作品では動画を見て研究し、撮影への向き合い方を少しずつ変えていきました。
2020年には冨田さんのソロ曲「空白の花」が制作され、MVは同年5月26日に公開されました。グループ曲とは異なり、冨田さん一人の歌と表情を中心にした作品です。
「空白の花」はその後も本人にとって特別な曲として残り、MV公開から4年を迎えた2024年にも公式Xで振り返っています。
「空白の花」から2021年のメジャーデビューへ
2021年4月7日、≠MEはデビューミニアルバム「超特急 ≠ME行き」を発売し、メジャーデビューしました。冨田さんが≠MEのオーディションに合格してから約2年後のことです。
結成からメジャーデビューまでの約2年間には、=LOVEと一緒に握手会を回ったり、ミニライブへ出演したりする期間がありました。冨田さんは、その時間に先輩グループから学ぶことが多かったとメジャーデビュー直前のインタビューで話しています。
メジャーデビュー後も楽曲ごとに表現の幅を広げ、2023年には6thシングル「天使は何処へ」でそれまでとは違うダンスナンバーにも向き合いました。
小さいころ姉について始めたダンスは、Seven Colorsでの活動を経て、≠MEの最初のステージへ続きました。鹿児島を離れたあとも、その始まりは3歳のころに立った身近なステージの中にあります。
































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