HKT48、そしてIZ*ONEで長くアイドルとして活動した矢吹奈子は、現在は俳優を軸に活動しています。ステージで知られるようになる前には、東京で子役として仕事をし、バレエを習い、AKB48の握手会へ足を運ぶ小学生時代がありました。
その生活が大きく変わったのは小学6年生のときです。憧れていた指原莉乃の言葉に背中を押され、東京から福岡のHKT48オーディションへ向かいました。
東京で育った小学生が、家族の支えを受けて福岡へ移り、12歳でHKT48のステージに立つまでをたどります。
2023年にHKT48を卒業した後も、本人の公式Instagramにはファンと直接会う場での姿が残っています。幼いころから人前に立ってきた奈子の原点は、もっと小さなころの記憶までさかのぼります。
矢吹奈子は昔どんな子だった?幼少期の子役時代
奈子の古い記憶のひとつは、3歳ごろに母親に抱かれて歌を聞いていた場面です。家の近くの公園では滑り台で遊び、母親からは、いつも元気で笑っていた子だったと聞かされていました。
家の近くの公園で、すべり台とかして遊んでました。
出典:エキサイトニュース「HKT48 矢吹奈子、子供のころからじゃんけん大会の準備は万端!」(2014年6月23日)
家の中ではテレビも身近でした。「プリキュア」と「サザエさん」をよく見ていて、「サザエさん」のエンディングでは、じゃんけんで何を出すか予想していたそうです。妹とじゃんけんをすると、なぜか負けることが多かったとも話しています。
幼いころから芸能の仕事をしていましたが、日常の記憶として残っているのは、公園、家族との遊び、テレビといった同年代の子どもらしい場面です。撮影の記憶と家庭での記憶が並んで残っているところに、子役時代の生活が見えます。
0歳から子役として活動し、映画「タッチ」に出演
芸能活動そのものは、本人によると0歳から始まっていました。幼すぎたため最初のドラマ出演の記憶はありませんが、2005年公開の映画「タッチ」では、浅倉南の幼少期を演じています。
撮影時は3〜4歳ほど。作品の細かな場面よりも、撮影中にプールで遊んだことがぼんやり記憶に残っていると、後年のインタビューで振り返っています。
物心がつく前からカメラの前に立っていた一方で、本人の記憶に残っているのは、プールで遊んだ幼い日の感覚でした。
3歳から小学5年ごろまで続けたバレエ
3歳からはバレエも習い始め、4歳のときに初めて発表会へ出演しました。レッスンは小学5年生ごろまで続き、先生から厳しく指導されることもあったものの、上達するためだと子どもなりに受け止めていたそうです。
バレエへ行く日の髪形を自分で整えることもありました。妹を客役にして美容師ごっこをするなど、遊びの中でも髪を触ったり形を整えたりすることが好きな少女でした。
発表会へ出るバレエと、現場へ行く子役の仕事。どちらも人前に出る経験でしたが、このころからアイドルを目指していたという本人証言はありません。後の進路を直接動かしたのは、もっと後に好きになったAKB48でした。
矢吹奈子の家族構成は?父親・母親・姉・妹との関係
奈子には姉と妹がいて、3人姉妹の真ん中です。父親、母親、姉、奈子、妹という家族の形は、HKT48加入を決めた小学6年生のときに大きく生活拠点が分かれることになります。
芸能活動を続けるうえで、両親は本人がやりたいことを優先していました。HKT48のオーディションを受けたいと伝えたときも反対するのではなく、挑戦する方向へ背中を押しています。
福岡には母がついてきてくれて、父は見守って応援し続けてくれていました。
出典:48times「HKT48矢吹奈子ラストインタビュー – 卒業に向けて今、思うこと」(2023年2月14日)
HKT48加入で家族が東京と福岡に分かれた
オーディション合格後、奈子は福岡で活動するために引っ越しました。母親と妹が奈子と一緒に福岡へ移り、父親と姉は東京に残ります。12歳の活動開始は、本人だけでなく家族の生活も組み替える選択でした。
卒業が近づいた2023年には、家族と以前から話し合い、一緒に卒業を決めたとも語っています。加入するときから卒業するときまで、進路の節目では家族と相談しながら決断していました。
福岡は、オーディションを受けに来た街から、学校へ通い、劇場へ立つ生活の場所へ変わっていきます。後年の公式Instagramにも、福岡の放生会を楽しむ姿が残っています。
矢吹奈子の学歴は?小学校・中学校・高校と大学の情報
奈子は小学6年生でHKT48に加入したため、学校生活とアイドル活動がほぼ同時に進みました。具体的な小学校・中学校・高校の校名については、本人や所属先が公表した情報だけでは確定できないため、学校名は断定しません。
小学6年で東京から福岡へ転校
東京で暮らしていた奈子は、HKT48加入に合わせて小学6年生で福岡へ転居し、小学校も転校しました。しかも卒業まで長い時間が残っていたわけではなく、転校先の校歌を覚えたころには卒業式を迎えています。
小6だったからこそ勇気が出たんだと思います。
出典:日刊スポーツ「12歳でHKT48加入の矢吹奈子 出身地聞いた博多大吉が驚愕」(2026年4月12日)
卒業間際の転校は、友人関係も学校の決まりも新しく覚え直す時期と、HKT48の活動準備が重なっていたことになります。東京に父親と姉を残し、福岡では母親、妹と新しい生活を始めました。
中学校と高校はHKT48の活動とともに過ごした
中学時代にはすでにHKT48の公演や楽曲に参加しており、2017年春には中学校を卒業する時期を迎えました。その後の高校生活もアイドル活動と重なり、一般的な学生生活だけに時間を使える環境ではありませんでした。
小学校、中学校、高校、反抗期、成人とすべてをHKTとして過ごした
出典:ORICON NEWS「元HKT48の矢吹奈子、目指すは“カメレオン俳優”」(2023年5月27日)
本人がこのように振り返っている通り、小学校の終盤から高校を終える時期まで、学校で過ごす時間とHKT48での時間は切り離せないものでした。学校名を追うよりも、12歳から仕事と学業を並行していたことが学生時代の大きな特徴です。
大学進学や大学名は公表されている?
大学については、本人や所属事務所の公式プロフィールで進学先・大学名は公表されていません。具体的な大学名を裏付ける一次情報がないため、学歴として特定の大学は記載しません。
AKB48ファンだった小学生時代!推しは指原莉乃
子役として仕事を経験していた奈子ですが、HKT48へ入る直接の入口になったのは、子役の仕事そのものではありません。小学生のころにAKB48が流行し、本人もファンになったことでした。
特に好きだったのが指原莉乃です。握手会へ足を運んだ奈子は、そこで指原からオーディションを受けるよう勧められました。最初はその言葉を信じ切れず、別の日の握手会にも行っています。
2025年のインタビューでは、小学生のころから握手会へ通うほどAKB48が好きだったと改めて話しています。ファンとして何度も会場へ行った経験が、後に自分がアイドルになってから、ファンが何をされるとうれしいか考える感覚にもつながっていました。
「これはもしかしたらいけるんじゃないかな」と勇気をもらって一歩を踏み出すことができました。
出典:ABEMA TIMES「HKT48矢吹奈子、先輩・指原莉乃との交流秘話を明かす」(2022年1月3日)
二度目にも同じように声をかけられたことで、奈子の受け止め方が変わりました。指原が当時HKT48にいたため、東京在住だった奈子は地元のグループではなく、福岡を拠点とするHKT48のオーディションを選びます。
握手会で声をかけた先輩と、オーディションを受けた小学生。その関係は加入後も続きました。卒業後にも、指原から贈られた楽屋のれんを本人が公式Instagramで紹介しています。
小学6年でHKT48 3期生オーディションへ
2013年、奈子はHKT48第3期生オーディションに挑戦しました。小学生が東京から福岡へ受けに行く決断でしたが、家族は本人の希望を尊重し、応募の段階から背中を押していました。
所属事務所の現在の公式プロフィールでは、2013年8月にHKT48第3期生オーディションへ合格したことが記されています。2001年6月生まれの奈子は、このとき12歳でした。
合格すれば、活動の中心は福岡になります。母親と妹が一緒に引っ越すことになり、父親と姉は東京に残りました。まだ小学校卒業前の奈子にとって、加入は仕事だけでなく、住む街と学校が一度に変わる出来事でした。
矢吹奈子がHKT48を受けた直接のきっかけは、AKB48の握手会で指原莉乃からオーディションを勧められたことです。
後年、奈子はIZ*ONEの活動を終えて日本へ戻った際にも、自身のXでHKT48への復帰を報告しました。12歳で選んだグループは、その後の海外活動を挟んでも本人が戻る場所になっています。
HKT48 3期生として12歳でステージへ
合格から約3か月後の2013年11月2日、HKT48のひまわり組「パジャマドライブ」公演初日で3期生9人がお披露目されました。東京の握手会で始まった話が、福岡の劇場で「HKT48の矢吹奈子」として人前に立つところまで進んだ日です。
同年11月からは研究生公演「脳内パラダイス」も始まり、3期生は劇場で経験を積んでいく時期に入りました。小学校へ通いながら、レッスン、公演準備、撮影が日常へ加わっていきます。
加入からまだ3か月ほどだった2013年11月、当時の奈子を取材した記者は、緊張で声がとても小さかった一方、ステージでは強い存在感を放っていたと後年振り返っています。人前で話す緊張と、舞台上で見せる姿には早くも差がありました。
奈子と同じ3期生で同年代の田中美久は、その後「なこみく」と呼ばれる存在になります。加入当初は年齢や身長が近く、比較される機会も多かったため、奈子自身も後年、互いにライバル視する部分があったと話しています。
HKT48で過ごした年月の終盤、奈子は最後のシングル「君はもっとできる」でセンターを務めました。12歳の加入から積み重ねた時間を視覚的に見せる資料として、本人公式Instagramの投稿をここに置きます。
「ウインクは3回」センターでアイドル活動が本格化
3期生のお披露目から間もない2013年11月20日、HKT48公式YouTubeで「ウインクは3回」のミュージックビデオが公開されました。AKB48の34thシングルType Hに収録された楽曲で、センターには3期生の矢吹奈子が抜擢されています。
加入したばかりの小学6年生にとって、本格的なMV撮影は未知のことばかりでした。当時はメーク経験がほぼなく、唇に色を塗られることにも慣れていませんでした。
HKT48の10周年企画で当時を振り返った奈子は、加入直後にセンターへ立ったことで周囲からさまざまな意見があり、センターに立つことを少し怖いと感じていたと明かしています。それでも、その気持ちに負けないように取り組んでいました。
同期の3期生たちの受け止め方は違いました。公式の3期生座談会では、奈子の抜擢を「やったじゃん」と喜び、驚きながら応援していた当時の空気が語られています。最終的に9人となった3期生には、互いに前へ出ることを喜ぶ雰囲気がありました。
撮影では、緊張でカチコチでした。
出典:MANTANWEB「私のはじめて:矢吹奈子、『カチコチ』だった初のMV撮影」(2023年12月27日)
緊張は食事にも表れました。弁当が食べられない奈子を見た指原が、スタッフにうどんを頼むよう声をかけましたが、奈子が食べられたのは麺を2本ほど。握手会で背中を押した先輩が、加入直後の撮影現場でもそばにいました。
「ウインクは3回」は2013年12月11日に発売されました。子役経験がありながら、アイドルとしては加入したばかりだった12歳が、3期生のお披露目直後にセンターへ立つという早い展開でした。
この曲はHKT48名義の表題シングルではなく、AKB48の34thシングルType Hに収録されたHKT48楽曲です。奈子にとっては、研究生として活動を始めた直後に名前と姿を広く知られる大きな機会になりました。
2014年「桜、みんなで食べた」でHKT48表題曲初選抜
翌2014年2月8日、長崎で行われたHKT48の九州7県ツアーで、3rdシングル「桜、みんなで食べた」の選抜メンバーが発表されました。奈子と同期の田中美久は“小6研究生”として初選抜に入り、会場で名前を呼ばれました。
その6日後の2月14日には、HKT48がグループ単独で初めて「ミュージックステーション」へ出演。加入から半年ほどの奈子と美久も、小学6年生の新しい選抜メンバーとしてテレビの生放送へ立つことになりました。
「桜、みんなで食べた」は2014年3月12日に発売。研究生としてお披露目された2013年11月から数えると、約4か月でHKT48の表題曲を歌う選抜メンバーまで進んだことになります。
さらに同年4月から奈子はチームHとして活動を開始します。3期研究生として劇場に入った少女は、春には正規チームで活動する立場へ移りました。
握手会で指原に声をかけられ、東京から福岡へ向かった小学6年生は、オーディション合格から1年もたたないうちにHKT48の表題曲を歌うメンバーになりました。小学校卒業とグループ内での立場の変化が、ほぼ同じ時期に進んでいます。
その後、HKT48での活動は約10年続きました。最後のシングルでもセンターを務め、2023年4月にグループを卒業しています。卒業時の公式Instagramには、ステージで撮影された写真を「宝物」として残していました。
初めてのMVでは、緊張で食事もできなかった12歳でした。それでも3期生のお披露目からセンター、HKT48表題曲の初選抜へと進み、アイドルとしての時間が本格的に始まっていきます。
東京でAKB48を見ていた小学生は、小学校最後の年に福岡の劇場へ立ちました。矢吹奈子のアイドルとしての原点は、憧れの人からもらった言葉を、自分の応募という行動に変えたところにあります。
































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