村川緋杏は昔どんな子だった?本名や家族構成、学歴とHKT48加入まで

ひと目でわかるプロフィール
村川緋杏
むらかわ びびあん
AKB48を追いかけた少女が、15歳でHKT48の横浜アリーナ初舞台へ
生年月日
1999年12月3日
血液型
O型
身長
157cm
出身地
福岡県
所属・活動形態
CANDY TUNE・HKT48
活動時代
平成アイドル
アイドル活動開始
2015年
活動開始時年齢
15歳
アイドルになったきっかけ
SNS・インターネット・オーディション

現在はCANDY TUNEのメンバーカラー・ピンクとしてステージに立つ村川緋杏。HKT48を卒業した後、2023年にもう一度アイドルグループの一員として歩き始めました。

その原点にあるのは、ステージの上ではなく客席側でAKB48やHKT48を追いかけていた少女時代です。テレビを見るため急いで家に帰り、板野友美のグッズを持ち、HKT48劇場へ足を運んでいました。

小学5年生ごろにはHKT48の1期生オーディション用の写真まで撮っていたものの、応募そのものを忘れてしまったと本人は振り返っています。

そこから数年後、天神で届いたAKB48公式LINEの通知が、客席にいた村川をオーディションへ向かわせます。HKT48のドラフト指名、加入後のレッスン、そして15歳で迎えた横浜アリーナの初ステージまでをたどります。

村川緋杏は昔どんな子だった?AKB48に夢中だった小学生時代

HKT48が誕生した2011年、村川は11歳の小学生でした。後年のHKT48公式インタビューでは、当時からAKB48の番組をよく見ていたことを振り返っています。

好きなアニメと同じ時間帯に「週刊AKB」が放送されていたため、両方を見るために学校から急いで家へ帰っていました。テレビの前で眺めるだけではなく、家の中でもAKB48の曲をまねして歌っていたそうです。

ほうきをマイクにして『ヘビーローテーション』を歌っていました

出典:HKT48 10th Anniversary「『これからの10年』へ思いを巡らせるインタビュー〜ドラフト2期生〜」(2021年8月16日)

「10年桜」で板野友美を好きになった

最初に強くひかれたメンバーは板野友美でした。「10年桜」で板野を見て好きになり、板野のファイルも持っていたといいます。学校の休み時間には、友人たちとAKB48選抜総選挙の順位を話題にする時代でした。

当時の村川にとってAKB48は、遠い芸能界の話だけではありませんでした。歌をまねし、グッズを集め、学校でも友人と話す、日常の中にいる存在でした。

村川緋杏の家族構成は?両親と姉とのエピソード

村川緋杏の家族構成
両親はビビアン・スーのファン
両親はビビアン・スーのファン
AKB48の握手会へ行っていた
本人
村川緋杏

村川の家族について公表されているエピソードでは、両親と姉の存在が確認できます。一般人である家族の氏名や職業などは公表されていませんが、アイドルを好きになった時期や「緋杏」という名前には家族との具体的な話が残っています。

姉が通っていたAKB48の握手会がうらやましかった

村川がAKB48を好きだったころ、姉は握手会へ足を運んでいました。村川はそれをうらやましく感じていたと話しており、見る側から少しずつオーディションへ興味を向けていく時期の家族エピソードとして残っています。

HKT48の1期生募集を知ったころにも、「チャンスがあるならやってみようかな」という気持ちになっていました。まだ将来の職業としてアイドルを決めていたわけではなく、好きなグループへ近づいてみたいという感覚に近いものでした。

「緋杏(びびあん)」は本名?名前の由来はビビアン・スー

「緋杏」と書いて「びびあん」と読む名前は芸名ではなく本名です。本人も公式Xで、自分の本名を名乗るとハーフなのか、ブランド名なのかと聞かれることが多いと投稿しています。

両親はタレントのビビアン・スーのファンで、「ビビアンのように美しくなってほしい」という思いを込めて名付けたと紹介されています。ドラフト会議直後にも、15歳だった本人が名前の由来を自分の言葉で説明していました。

(ビビアン)みたいに、きれいになってねっていうことです

出典:デイリースポーツ「HKT指原が注目 新星候補・村川緋杏」(2015年5月11日)

村川緋杏の学歴は?中学時代から高校1年生のドラフト会議まで

村川緋杏の学歴
中学校
校名非公表
受験期に第2回ドラフトへ応募
高校
校名非公表
2015年のAKB48公式プロフィールで高校1年生

村川の小学校・中学校・高校の具体的な校名は公表されていません。一方、2015年のAKB48公式ドラフト候補者プロフィールには「高1」と記録されており、ドラフト会議で指名された時点で高校1年生だったことは公式資料で確認できます。

中学生のころに古着が好きになった

中学生のころ、村川の中で大きくなったもう一つの関心がファッションでした。2026年のインタビューでは、古着を好きになった時期が、その後の自分の感覚をつくったと振り返っています。

お洋服で自分を飾ることってこんなに楽しいんだ

出典:クランクイン!「CANDY TUNE・村川緋杏、自分のことが嫌いだった過去 友人の言葉で“後天的ポジティブ”に」(2026年8月29日)

ドラフト候補者時代の公式プロフィールでも趣味は「服作り」と記載されています。球技を特技として挙げる一方、服を作ることはこのころから自分の好きなものとしてはっきりしていました。

同じプロフィールで「目標メンバー」に挙げていたのは、指原莉乃と谷真理佳です。まだHKT48の一員になる前から、村川が福岡で活動するメンバーを意識していたことが分かる記録でもあります。

受験期は塾にも通っていた

第2回AKB48グループドラフト会議のオーディションが進んだ時期は、村川にとって受験の時期でもありました。本人は塾が忙しかったと振り返っており、芸能活動だけを考えて生活していたわけではありません。

候補者として東京へ行く段階まで進んでも、合格後の生活を具体的に思い描いてはいませんでした。高校進学を控える日常と、思いがけず進んでいくオーディションが同時に動いていました。

大学へ進学した?公表されている学歴

村川の大学名は公表されていません。高校卒業後もHKT48で活動を続けていますが、大学在籍を示す学校名や学歴は本人・所属先の公開プロフィールには掲載されていません。

HKT48を客席から見ていた少女がオーディションへ近づくまで

村川とHKT48の接点は、2015年のドラフトから突然始まったものではありません。HKT48が1期生を募集したころ、小学5年生ほどだった村川はオーディション用の写真を撮るところまで進んでいました。

ところが、本人いわく「性格上、忘れて」しまい、写真を用意したまま応募には至りませんでした。最初のHKT48オーディションは、合否以前のところで終わっています。

HKT48劇場へ3、4回通い、村重杏奈の立ち位置を予習

その後はHKT48劇場へ3、4回、公演を見に行きました。特に好きだったのが村重杏奈で、公演へ行く前には村重がどこにいるのかを家で予習していたそうです。

見ていたのは「博多レジェンド」公演や「手をつなぎながら」公演。マリンメッセ福岡の握手会では、村重と握手するつもりでミニライブを見ていたものの、ステージ上の兒玉遥にひかれ、長い列へ並んで兒玉と握手したことも後年明かしています。

HKT48のメンバーになる前の村川は、劇場の座席から推しメンの立ち位置まで予習して見に行く側のファンでした。

天神で届いたLINEから第2回AKB48グループドラフト会議へ

転機になったのは、AKB48公式から届いた第2回ドラフトの案内でした。そのとき村川は福岡・天神にいて、帰宅するまでの時間を使って応募するかどうかを自分なりに決めました。

「家に帰るまでに履歴書を書き終えたら送る。間に合わなければやめる」。スマートフォンで応募内容を書き始めると、普通に書き終わってしまいます。帰宅後は制服のまま、前髪はオン眉、一つ結びという姿で写真を撮って応募しました。

もともとアイドルになろうなんて1ミリも思ってなくて

出典:クランクイン!「CANDY TUNE・村川緋杏、自分のことが嫌いだった過去 友人の言葉で“後天的ポジティブ”に」(2026年8月29日)

「どうせ受からん」で始めた応募が最終審査まで進んだ

最初は「どうせ受からん」と思っていたため、審査を通過して東京へ行くことになっても、旅行に近い軽い気持ちだったといいます。ところが審査はさらに進み、次へ行けば本当にアイドルになる可能性が出てきました。

村川はAKB48のドキュメンタリーなどを見て、アイドルの仕事が大変なことも知っていました。受験期で塾も忙しく、最終審査には「行かない」と話していたものの、最終的にはUSJのチケットをきっかけに審査へ行き、合格します。

合格がニュースとしてインターネットに出たあとは気持ちを切り替え、「受かったからにはやりたい」と真剣に取り組むようになりました。好きだったアイドルを眺める日常から、自分が候補者として評価される日々へ変わっていきます。

ドラフト候補者になってからは、プロフィール映像や密着映像の撮影だけでなく、劇場パフォーマンスやレッスン合宿も経験しました。AKB48公式には2015年3月から5月にかけて、その過程を追った候補者映像が順次公開されています。

オーディションへ送った写真は制服姿だった少女が、数カ月後には大勢の観客と現役メンバーが見守るドラフト会議のステージに立つことになります。

HKT48から2巡目指名!指原莉乃が当日のパフォーマンスを見て決断

2015年5月10日、第2回AKB48グループドラフト会議が開かれました。AKB48公式の指名結果では、HKT48 Team Hが1巡目に松岡はな、2巡目に村川緋杏を指名しています。

村川は指名が決まっていた有力候補ではありませんでした。デイリースポーツによると、Team Hは当初、松岡の1人で指名を終える予定でしたが、指原莉乃が当日の村川のパフォーマンスを見て評価し、急きょ2巡目の指名へ動きました。

ドラフト会場では、当時AKB48グループ総監督だった高橋みなみも村川の存在感に反応しています。印象的なぱっつん前髪を気にする村川へ声をかけるなど、指名直後から会場のやり取りの中心に入る場面がありました。

「メロンジュース」で松岡はなと今村麻莉愛の間にいた

後年、村川はドラフト当日の「メロンジュース」で、松岡はなと今村麻莉愛の間のポジションにいたことがきっかけで「見つけた」と指名してもらったらしい、と振り返っています。

指名はうれしかった一方、松岡と今村はダンスが上手く、自分は候補者期間中も立って回ることさえうまくできなかったという実感がありました。HKT48から名前を呼ばれた瞬間に、不安も同時に始まっています。

HKT48加入後はダンスができず毎日泣いた

ドラフト指名後、村川はHKT48のレッスンへ入ります。本人が後年語ったところでは、ダンスの先生は必要なことをきちんと伝えながらも優しく、先輩やマネージャーも真剣に話を聞いてくれる環境でした。

ただ、本人の技術面の苦戦は大きなものでした。ドラフト候補者のころからダンスに自信がなく、加入してからは周囲との差をレッスンのたびに感じていました。

めちゃめちゃ踊れなくて毎日泣いていた

出典:HKT48 10th Anniversary「『これからの10年』へ思いを巡らせるインタビュー〜ドラフト2期生〜」(2021年8月16日)

泣いた理由はレッスンへ行くのが嫌だったからではなく、「どうして自分はこんなに何もできないんだろう」と思い知らされることでした。それでもレッスンそのものを避ける気持ちにはならず、初ステージへ向けて練習を続けます。

村川緋杏がアイドルになるまで
2011年ごろ
AKB48やHKT48に夢中になる
HKT48 1期生オーディション用の写真まで撮ったが応募には至らなかった。
2011年以降
HKT48劇場へ通う
劇場公演を3、4回見に行き、村重杏奈らを客席から応援した。
2015年
第2回AKB48グループドラフト会議へ
AKB48公式LINEの案内をきっかけに応募し、最終審査を通過した。
2015年5月10日
HKT48 Team Hから2巡目指名
ドラフト会議当日のパフォーマンスを見たTeam Hから指名された。
2015年5〜6月
HKT48加入後のレッスン
ダンスに苦戦しながら横浜アリーナでのお披露目に向けて練習した。
2015年6月27日
横浜アリーナで初ステージ
「ウィンブルドンへ連れて行って」のセンターを務め、HKT48の一員としてアイドル活動を開始した。

15歳、横浜アリーナでアイドルとして最初のステージへ

ドラフト会議から約1カ月半後の2015年6月27日。HKT48は横浜アリーナで全国ツアー公演を行い、村川緋杏、松岡はな、今村麻莉愛のドラフト2期生3人をお披露目しました。3人にとってHKT48の一員として立つ初めてのステージでした。

15歳の村川に用意されたのは「ウィンブルドンへ連れて行って」。田島芽瑠、朝長美桜というセンター経験者と3人で歌い、村川はいきなりユニットのセンターを任されました。

日刊スポーツは、ピンクの衣装を着た村川が横浜アリーナの1万2000人の前でデビューしたと伝えています。HKT48劇場に通ってメンバーを目で追っていた少女が、今度は大きな会場の中央で名前を呼ばれる側になりました。

あの日が人生で一番大きなコールでした(笑)

出典:HKT48 10th Anniversary「『これからの10年』へ思いを巡らせるインタビュー〜ドラフト2期生〜」(2021年8月16日)

イヤモニを着け忘れ、衣装の指輪まで飛んだ初舞台

大きな「びびあん」コールを受けた一方で、舞台裏まで完璧だったわけではありません。村川はイヤーモニターを着けないままステージへ出てしまい、歌いながら装着することになりました。

さらに衣装の指輪まで飛び、ステージを終えて戻ってきた村川は泣いていました。今村麻莉愛は、その姿を見て松岡はなと2人で「どうしたの?」と声をかけたことを覚えていると、同じ10周年インタビューで話しています。

それでも初舞台はユニット曲だけで終わりませんでした。MCでは好きなものを聞かれ、「鳥です。食べる方ではないです」と答え、飼っている雌の鳥の名前が「とりこ」だと明かしています。初日から歌とトークの両方で観客の前に立ちました。

同じ日のステージには松岡はな、今村麻莉愛も登場し、指原莉乃は3人を「個性あふれるメンバーたち」と評しました。ドラフト会議で選ばれた3人が、約1カ月半でHKT48のメンバーとして観客に紹介された日でした。

2015年6月27日の横浜アリーナから10年後、CANDY TUNE公式YouTubeでは村川のアイドル10周年記念ライブのドキュメンタリーが公開されました。初舞台と同じ6月27日に公開された映像です。

小学生のころは、ほうきをマイクにしてAKB48を歌っていた村川緋杏。HKT48の1期生募集では応募を忘れ、数年後のドラフトも「どうせ受からん」という気持ちから始まりました。

それでも2015年6月、横浜アリーナで本当にマイクを持ち、HKT48の一員として最初のステージに立ちました。その日から続くアイドル歴は、現在のCANDY TUNEでの活動へつながっています。

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