≠MEでリーダーを務め、ステージでは歌やダンスだけでなく、楽曲の世界を演じるような表現を見せる蟹沢萌子。今の姿へ続く道は、小学生のころに目にしたアイドルのきらめきから始まっていました。
幼いころはかわいいものやかわいい女の子が好きで、最初に抱いたのはモデルへの憧れ。高校ではチアリーディング部に打ち込み、大学へ進んでから芸能界への挑戦を本格化させています。
大学1年の間に決まらなければ夢への挑戦を終えるつもりだった蟹沢萌子に、≠MEのオーディションを勧めたのは父親でした。
その一言をきっかけに最後のチャンスへ進み、2019年に≠MEのメンバーとしてお披露目されます。少女時代の小さな思い出から、初めてアイドルとしてステージに立つまでをたどります。
蟹沢萌子は昔どんな子?幼少期から芸能界に憧れた少女時代
蟹沢萌子は神奈川県出身。本人は2024年のインタビューで、幼いころから「かわいいもの」や「かわいい女の子」を見ることが好きだったと話しています。
芸能界への憧れも早くからありました。最初に思い描いていたのはモデルで、小学生くらいになると、テレビなどで見るアイドルが強く印象に残るようになります。
幼い頃からかわいいものやかわいい女の子を見るのが好き
出典:マイナビティーンズ「【応募終了】私立恵比寿中学の中山莉子さん、風見和香さん、≠MEの蟹沢萌子さん、鈴木瞳美さん、BEYOOOOONDS の高瀬くるみさん、里吉うたのさん『はじめの一歩は直感や自分の中の気付きだと思う』#はじめの一歩」(2024年11月1日更新)
かわいいものが好きで最初はモデルに憧れた
「芸能界に行きたい」という気持ちは、アイドルだけに一直線だったわけではありません。本人によれば、もともとはモデルへの憧れがあり、成長する中で歌や芝居など、表現する仕事への関心が広がっていきました。
小学生のころからさまざまなオーディションにも挑戦しています。ただし、大学生になってから受け始めた「アイドルのオーディション」とは時期を分けて語っており、子どものころは芸能界全体への憧れから挑戦していました。
小学生でAKB48と出会い、アイドルが身近な憧れに
小学生になると、AKB48との出会いがありました。街中で曲が流れ、テレビをつければメンバーが出演し、お菓子など身近な商品とのコラボも目にする時代。蟹沢萌子の中で「アイドル」という存在とAKB48は強く結びついていました。
初めて自分が買ったCDが「ポニーテールとシュシュ」でした。
出典:Pop’n’Roll「≠ME[インタビュー]AKB48との共演で習得したバラエティの極意『川中子奈月心ちゃんは悔しくなるくらい面白かった』冠番組『≠MEの先輩、教えて下さい!』放送決定」(2021年1月19日)
子どものころに自分のお金で選んだ一枚として記憶に残っているのが「ポニーテールとシュシュ」。後に自身もアイドルとなり、AKB48のメンバーと番組で共演することになります。
蟹沢萌子の家族構成は?父親・母親・兄とのエピソード
蟹沢萌子が昔を振り返った発言には、父親、母親、兄との具体的な場面が登場します。なかでも父親は、後に≠MEへつながるオーディションを本人へ勧めた存在です。
父親の一言が≠MEオーディションへの後押しに
大学生になり、芸能界を目指す時間に自分で期限を決めていたころ、=LOVEの姉妹グループオーディションが行われました。その募集を蟹沢萌子へ勧めたのが父親でした。
本人は後年、父親の一言がなければ≠MEとして活動する現在の自分はいなかったと振り返っています。
父親が応募を代行した、あるいは進路を決めたという話ではありません。最後の一歩を踏み出す場面で、本人の前にあった選択肢を言葉にして示したのが父親でした。
兄と日曜朝のアニメを見ていた子ども時代
兄との思い出として残っているのは、日曜朝のアニメです。後に声優の仕事へ挑戦した際のインタビューで、子どものころから兄と一緒にアニメをよく見ていたと話しています。
昔から兄と一緒に日曜朝9時頃からやっているアニメなどをよく見ていました。
出典:Gamer「TVアニメ『シャインポスト』キャストインタビュー【第2回】玉城杏夏役・蟹沢萌子さん」(2022年8月25日)
「プリキュア」シリーズも見ていました。風邪をひいた日には、母親がレンタルビデオ店から「おジャ魔女どれみ」「美少女戦士セーラームーン」「カードキャプターさくら」などを借りてきてくれたそうです。
蟹沢萌子の学歴は?小中学校・高校・大学の学生時代
学校生活については、小学校・中学校・高校・大学それぞれの時期を本人がインタビューで振り返っています。一方、通っていた小中学校、高校、大学の正式名称は公表されていません。
大学へ進学したこと、高校でチアリーディング部の部長を務めたことは本人が公に語っています。大学名や高校名は公表情報だけでは特定できません。
小学校では委員長に立候補するタイプだった
現在の柔らかな話し方から本人が「ふにょん」と表現する雰囲気とは違い、小学生時代は人の前へ出ることに積極的でした。委員会の委員長へ自分から立候補し、周囲へ声をかけて動くこともあったそうです。
委員会の委員長に立候補したり「みんな行くよ!」みたいな感じで引っ張っていくタイプでした。
出典:エキサイトニュース「『王道を突き詰めたい』≠MEのふんわりリーダー蟹沢萌子、青春グラビアカットを公開」(2022年5月15日)
後に≠MEでリーダーを務めることになりますが、小学生のころから現在と同じ形で人をまとめていたわけではありません。本人の記憶では、中学校へ進むころに性格が変わっていきます。
中学生になると「ふにょん」とした性格に
中学生になると、小学校時代の「みんな行くよ!」と引っ張るタイプから、本人いわく「ふにょん」とした性格へ変化。高校へ進んでも、その柔らかな性格は続いていたと振り返っています。
それでも、人前に立つ役割そのものがなくなったわけではありません。高校ではチアリーディング部に入り、部長を任されました。
高校はチアリーディング部の部長、部活ひと筋の日々
高校時代について、蟹沢萌子は「部活ひと筋」と表現しています。チアリーディング部の部長を務め、大学生になったら芸能界の夢へ挑戦しようと考えながら、まずは目の前の部活動に打ち込みました。
学校生活には、舞台上のような大きな出来事だけでなく、友人との何気ない時間も残っています。部活の休憩時間には仲間と自転車でコンビニへ行き、アイスやパスタサラダ、チキンなどを買っていました。
帰りは自転車に乗らず、みんなで食べながら押して歩いたといいます。部活へ戻るまでの短い道のりも、高校時代の記憶の一つです。
それが本当に青春だったなって思います。
出典:WEBザテレビジョン「≠ME蟹沢萌子、メンバーも驚く“一生忘れない夏の思い出”を明かす」(2022年8月3日)
大学1年を芸能界へ挑戦する期限にした
高校卒業後は大学へ進学しました。大学時代にはイベントスタッフのアルバイトを経験し、パンのイベントで受付をしたほか、アイドルの日本武道館公演では物販スタッフとして働いています。
物販の現場では、全身に推しメンのグッズを身につけて会場へ来るファンの熱量を目の前で見ました。自分もステージに立つ人になりたいという気持ちを、改めて強くした時間だったと語っています。
大学1年の間に決まらなかったら、諦めるつもりでした。
出典:タウンワークマガジン「蟹沢萌子(≠ME)インタビュー『自分の夢を叶えることとメンバー全員が幸せになることが2本の柱です』」(2022年11月23日)
大学生になってからは、アイドルのオーディションを本格的に受け始めました。受けたい募集には応募したものの、不合格になったり、審査と学業が重なったりすることもありました。
高校時代に欅坂46と出会い、アイドルへの見方が変わる
高校までの蟹沢萌子にとって、将来の憧れとしてより強かったのは女優でした。アイドルは好きで見る存在でしたが、自分自身がアイドルとして表現するイメージはまだ決定的ではありませんでした。
その見方を変えたのが、高校時代に知った欅坂46です。歌って踊るだけでなく、曲の主人公を演じるように表現する姿を見て、「自分もやりたい」と感じたと話しています。
チアリーディングで身体を使って表現し、もともと芝居にも興味があった蟹沢萌子にとって、歌・ダンス・演技が重なるようなアイドルの表現は、新しい進路として見えるようになっていきました。
蟹沢萌子が≠MEオーディションを受けたきっかけ
大学1年という期限が迫る中で出会ったのが、指原莉乃プロデュースによる=LOVEの姉妹グループオーディションでした。蟹沢萌子にとって、ただ新しい募集を一つ見つけたというだけではありませんでした。
指原莉乃プロデュースのグループに応募しなかった後悔
高校生のころ、指原莉乃がプロデュースするグループの募集に応募しなかったことを、蟹沢萌子は後悔していました。その後に誕生した=LOVEの楽曲を追い続け、姉妹グループの募集を知ったときには「受けるしかない」という気持ちになったといいます。
一度見送った機会と、大学1年で区切ると決めた期限。その二つが重なる中で現れた姉妹グループのオーディションは、自分で決めていた時間の中では最後のチャンスになりました。
父親から勧められた最後のチャンス
応募を後押ししたのは、家族章で触れた父親の一言でした。幼いころから芸能界に憧れ、何度もオーディションに挑戦してきた娘へ、父親が姉妹グループの募集を勧めました。
2019年1月26日、オーディションの最終審査が行われました。そこまで進めた時点で、指原莉乃と会える機会そのものも貴重だと感じていたそうです。
最終審査前の日記とカツ丼
最終審査を前にした当時の日記には、「やれるだけのことをやって、受かっても落ちても運命」と書いていました。結果だけを考えて身動きできなくなるのではなく、審査の場まで来られたことを受け止めていた時期でした。
前日の食事は、験担ぎのカツ丼。大学1年で区切ろうとしていた挑戦の最後に、少し素朴な願掛けをして最終審査へ向かいました。
最終審査から約1か月後の2019年2月24日、メンバーがお披露目され、指原莉乃からグループ名が「≠ME」であることも発表されました。蟹沢萌子は19歳で、本格的なアイドル活動を始めます。
≠ME合格後の合宿でぶつかった「表現」の壁
合格すれば、そのまま思い描いたアイドルになれるわけではありませんでした。加入後の合宿では、チアリーディングで身についた身体の使い方が、アイドルのダンスでは別の課題として現れます。
本人は、踊り方がチア寄りになって動きが固まっていたと振り返っています。指導では、正しくきちんと踊るだけでは面白くないという趣旨の言葉を受け、自分の見せ方と向き合うことになりました。
「アイドルだからこうする」という型へ自分を合わせようとすると、かえって個性を消してしまう。活動を続ける中で、「私だったらこうする」と考えていいことに気づいたと話しています。
≠ME公式YouTubeの「Documentary of ≠ME – episode1 -【蟹沢萌子】」には、結成初期の蟹沢萌子の姿が残されています。高校まで続けたチアとは違う表現を身につけながら、初ステージへ向けて進んでいたころです。
2019年8月、初めてアイドルとしてステージへ
2019年8月4日、≠MEは「TOKYO IDOL FESTIVAL 2019」のSMILE GARDENに登場しました。グループにとって初めてのステージで、会場には2,000人を超える観客が集まったと報じられています。
ステージでは=LOVEの楽曲4曲を披露したあと、初のオリジナル曲「≠ME」も初披露。小学生のころはテレビの向こうのアイドルを見ていた蟹沢萌子が、今度は観客の前でアイドルとして歌う側に立ちました。
オーディション最終審査から約半年。父親の勧めで踏み出した応募は、合宿とレッスンを経て、実際のステージへつながりました。
その後、≠MEは2021年4月7日にデビューミニアルバム「超特急 ≠ME行き」を発売し、メジャーデビューを迎えました。
モデルに憧れた少女は、AKB48を知り、高校でチアリーディングに打ち込み、大学1年という期限を決めてオーディションへ挑戦しました。2019年8月4日の初ステージは、その積み重ねの先にあった最初の舞台でした。
































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