=LOVEで長く歌い続けてきた諸橋沙夏。2026年8月には30歳を迎え、グループの中でも歌声を印象づけるメンバーの一人としてステージに立っています。
その歩みをさかのぼると、東京の芸能界から始まったわけではありません。福島県いわき市でフラや音楽に親しみ、駅前の商業施設LATOVで歌い、地元の学生たちとステージに立っていた10代がありました。
高校時代には震災孤児・遺児を支えるチャリティーユニットでも活動しますが、大学進学の時期にはいったん地元での芸能活動から離れます。そこから再びアイドルへ向かう入口になったのが、大学3年生のときに母親と友人から知らされた=LOVEのオーディションでした。
しかも諸橋沙夏は、二次審査に通ったあと一度オーディションを辞退しようとしています。
いわきで過ごした少女時代から、地元での歌やダンス、大学生活、そして=LOVEとして最初のステージに立つまでをたどります。
諸橋沙夏の生い立ち!いわきで育った少女時代
諸橋沙夏の公式プロフィールでは出身地は福島県。地元メディアや復興関連の取材ではいわき市出身と紹介され、少女時代をいわきで過ごしています。出生した市区町村までは公表されていません。
幼いころの夢はハワイアンズのトップダンサー
2012年、15歳の諸橋沙夏を紹介した地元紙には、フラとタヒチアンダンスが得意で、幼いころになりたかったのは「ハワイアンズのトップダンサー」と記されています。現在の公式プロフィールにも、特技としてフラダンスとタヒチアンダンスが残っています。
歌だけではなく、身体を使って表現することが身近にあった少女でした。後に=LOVEのオーディションを受けたとき、初めて歌やダンスに触れたわけではなく、地元で積み重ねてきた時間がその前にあります。
「アイドル」より先に、いわきのハワイアンズの舞台に憧れていた女の子でした。
家族と釣りに出かけ、高級魚のマゴチを釣ったことも
海のあるいわきでの思い出には釣りもあります。復興庁の取材では、子どものころから家族と釣りを楽しみ、高級魚として知られるマゴチを釣った経験も紹介されました。
ステージやレッスンだけではない、家族と海へ出かける日常があったことも、少女時代を具体的に伝える一場面です。
諸橋沙夏の家族構成は?母親との日常と進路への関わり
家族について本人が具体的に語っているのは、とくに母親とのエピソードです。父親や兄弟姉妹については、本人や公式媒体で家族構成を詳しく公表していないため、人数や職業を推測して補うことはできません。
母親は結婚式の司会、沙夏も式場でアルバイト
母親は結婚式の司会の仕事をしていました。その流れから諸橋沙夏も、結婚式で神前の巫女を半年ほど経験し、別の時期には音楽を流すミキサーや照明を操作する仕事も半年ほど経験しています。
巫女の仕事では手順をなかなか覚えられず、儀式の最中に神主が参列者へ説明する形を取りながら、本人に次の動きをそっと教えてくれたこともあったそうです。ミキサーでは結婚式という失敗できない場で音を扱う緊張を味わいました。
母親の仕事をきっかけに始めた二つのアルバイトは、のちに本人が「楽しかった」と振り返る経験になりました。さらに大学3年生になったころ、進路を迷っていた娘へ=LOVEのオーディションを知らせたのも母親でした。
諸橋沙夏の学歴は?いわき市内の県立高校から明治学院大学へ
学校名まで確実にたどれるのは大学です。大学は明治学院大学法学部。中学校は校名が公表されておらず、高校は2012年の本人インタビューで「市内の県立高校」と紹介されています。
中学では吹奏楽部、フルートとピアノに親しむ
中学時代は吹奏楽部に所属していました。15歳当時のプロフィールには趣味としてフルートとピアノも挙げられており、学校生活の中でも音楽がすぐそばにありました。
中学2年生だった2011年3月11日、東日本大震災が起きます。後年、浪江町出身者へのインタビューで聞き手を務めた際、諸橋自身も当時の学校の様子を振り返っています。
私も震災当時は中学2年生。
出典:TOKYO FM「福島県浪江町請戸、横山和佳奈さんインタビュー」(2024年2月24日)
諸橋の学校には浪江地区などから約100人が転校してきたといい、最後はみんな仲良く卒業した思い出があるとも話しています。震災は、その後の地元での活動やBaby Tiaraへつながる前に、学校生活のただ中で起きた出来事でした。
東京ではなく、いわき市内の県立高校を選んだ
高校進学では、芸能活動を考えて東京の高校へ行く話もあったといいます。それでも本人は地元の学校を選択しました。2012年、LATOVのイメージガールとして受けたインタビューでは、その理由を短い言葉で語っています。
いわきの温かさが好きなんです。
出典:いわき民報「Junction 80 7月号」(2012年7月号)
同じインタビューでは、いわきを離れることは考えられなかったとも答えています。高校の正式校名について、当時の本人記事が示しているのは「いわき市内の県立高校」までです。
10代で芸能活動へ!ヤマハのオーディションからラトブへ
震災から約1か月後の2011年4月、諸橋沙夏はヤマハミュージックパブリッシングのタレントオーディションで、約1000人の中からグランプリに選ばれました。まだ中学生だった時期です。
同年10月には1st DVD「15years」を発売。翌2012年4月からは、いわき駅前の商業施設LATOVのイメージガールに就任します。10代前半から芸能活動歴はありますが、当時資料が示す中心はオーディション、歌、ダンス、地元イベントなどで、俳優の「子役」としての出演歴とは分けて考える必要があります。
高校生の「ラトブの女の子」になった
高校生になった諸橋にとってLATOVは、仕事場になる前から気軽に立ち寄る場所でした。館内にはいろいろな店があり、長時間いても飽きないと話し、おすすめを聞かれると「全部」と答えています。プリクラも行くたびに撮っていたそうです。
イメージソング「ラブラブラトブ」は2012年6月23日のイベントで初披露され、会場では握手やサイン会も行われました。歌うだけでなく、LATOVの「顔」として来場者と直接触れ合う役目も担っていました。
SEA WAVE FMいわきの番組「ラブ♥ラブ♥ラトブ」にも、LATOV1階の吹き抜けにあるサテライトスタジオから月1~2回ほど出演。ショップスタッフとのトークや地域イベントの情報を、生放送で届けていました。
聖☆少女合唱団のリーダーとして約5000人の前へ
2012年には、小中高校生11人で結成された「聖☆少女合唱団」のリーダーにも就任しました。6月15日、沖縄県糸満市の平和祈念公園で開かれたイベントに出演し、約5000人を前にグループとして初めてステージへ立っています。
機会があれば、ぜひいわきでも歌いたいです。
出典:いわき民報「Junction 80 7月号」(2012年7月号)
LATOVのラジオブースで話すこと、商業施設のテーマソングを歌うこと、合唱団をまとめて大勢の観客の前に出ること。高校1年の段階で、人前で歌う経験は地元いわきの中ですでに増えていました。
高校3年でBaby Tiaraへ!震災孤児・遺児を支えるアイドル活動
2014年になると、諸橋沙夏の活動は新しい形へ進みます。東日本大震災のあと、震災孤児・遺児を伝える報道に触れ、自分にできることを考えた末に、チャリティーのためのアイドルグループ「Baby Tiara」を結成しました。
同年4月20日にいわき市のMusic&Bar QUEENでデビューライブを開催。福島の震災孤児・遺児を見守る団体には、そのライブで集めた募金が寄付されています。デビューから1週間後の4月27日には、同団体の公式記録にBaby Tiaraからの寄付が掲載されました。
秋には「いわき街なかコンサート」にも出演しています。2014年の出演者記録では4人のボーカルメンバーが並び、ライブなどの公演を行って収益の一部を義援金や寄付に充てることを活動目的の一つとして掲げていました。
2014年11月発行の「わわ新聞」では、「いわきで誕生した 現役女子高生による チャリティーユニット」としてBaby Tiaraを特集。諸橋は「日向心愛」の活動名で紹介されています。
=LOVEは、諸橋にとって初めてのアイドル経験ではありません。17歳の高校生だった2014年、地元の支援を目的としたグループで、すでにアイドルとしてステージに立っていました。
一方で、Baby Tiaraは現在の=LOVEへそのまま続く活動ではありません。高校卒業と大学進学の時期を境に地元での活動を終え、生活の軸は学生生活へ移っていきます。
明治学院大学法学部へ進学し、いったん学生生活へ
諸橋沙夏が進学した大学は明治学院大学です。本人が公式Xで母校と明記し、学部についても自ら法学部だったことを明かしています。
こうみえて(?)法学部です
出典:諸橋沙夏 公式X(2021年10月31日)
明治学院大学の白金祭でも、2021年の企画で諸橋を「卒業生」として紹介しています。本人は2019年9月、大学を卒業した際の写真と思いをInstagramに残しました。
大学生活が後半に入った2017年、諸橋は3年生でした。周囲が就職を考え始める時期になっても、自分が何をしたいのかはまだ定まっていなかったと後のインタビューで話しています。
地元で歌い、チャリティーアイドルも経験したあと、大学生として就職を考える。ここで一度、芸能活動を当然の進路として選び続ける流れは切れていました。
大学3年で=LOVEオーディションへ
進路を決めかねていた大学3年生の諸橋へ、友人と母親が「こういうオーディションあるよ」と教えたのが=LOVEのオーディションでした。指原莉乃がプロデュースする新しい声優アイドルグループの初期メンバー募集です。
応募後は二次審査まで通過しました。ところが、その先で候補者がSHOWROOM配信をすることを知ります。合格前に顔を出して配信することに乗り気ではなく、周囲の候補者の高い熱量を見て、自分との温度差も感じました。
私がここにいちゃいけないと思ってしまいました。
出典:タウンワークマガジン「諸橋沙夏(=LOVE)インタビュー」(2017年11月28日)
二次審査の合格が決まった直後、諸橋は親へ電話をかけ、オーディションを辞退すると伝えました。
辞退の電話から家族会議へ
その電話を受けて家族会議が開かれます。母親が伝えたのは、受かるか落ちるかだけではなく、オーディションを受ける経験そのものが人生の中で大切になる、という趣旨の言葉でした。
諸橋は辞退せず、そのまま審査を続けることを決めます。2017年4月29日に最終審査が行われ、初期メンバーに選出。同じ日にグループ名が「=LOVE」と発表されました。
地元でアイドル経験があったとはいえ、この時点で本人は=LOVEのメンバーになった実感がまだ薄かったとデビュー後に振り返っています。大学生として就職を考えていた数か月前とは、生活の前提が大きく変わりました。
諸橋沙夏が=LOVEとして初めてステージに立つまで
合格したらすぐ完成したアイドルになれるわけではありません。デビュー前には合宿やレッスンがあり、自己紹介一つにも「人に物を伝えるプロ」としての姿勢を求められました。
合宿では、メンバーが似たような自己紹介をしていたことをダンスの先生から厳しく指摘されたといいます。タレントは人へ何かを伝える仕事なのだから、一人ひとりが同じ見せ方ではいけないという内容でした。
諸橋は後に、当時は厳しいと感じていたダンスの先生の言葉を、映像を見返して理解できるようになったと話しています。歌やフラ、地元ステージの経験があっても、=LOVEでは新しいグループの一員として一から形を作っていく時間がありました。
2017年8月5日、TIF2017のステージへ
2017年8月5日、=LOVEは「TOKYO IDOL FESTIVAL 2017」に出演しました。公式スケジュールでは13時55分からHOT STAGEに登場。グループにとって、観客の前でパフォーマンスする最初のライブステージとなりました。
この日はAKB48の「言い訳Maybe」「大声ダイヤモンド」、HKT48の「メロンジュース」、乃木坂46の「ガールズルール」を披露したあと、9月6日のメジャーデビューを発表。最後にデビュー曲「=LOVE」を歌っています。
高校1年で聖☆少女合唱団の初ステージに立ってから約5年。Baby Tiaraでは地元の支援を目的に歌い、大学進学後はいったん活動から離れ、その後に辞退しかけたオーディションを経て、今度は=LOVEのメンバーとして東京の大型アイドルフェスに立ちました。
9月6日、1stシングル「=LOVE」でメジャーデビュー
TIFから約1か月後の2017年9月6日、1stシングル「=LOVE」が発売されました。高校生のころLATOVのイメージソングを歌っていた諸橋は、21歳で=LOVEのCDデビューを迎えます。
=LOVEで活動を続ける中では、新しい衣装やステージの姿を本人Instagramにも残してきました。地元の商業施設で歌っていた10代の写真とは別に、グループの衣装をまとった姿が積み重なっていきます。
2021年、=LOVEの4周年を迎えた時期の投稿です。学生時代に一度はアイドルを進路の中心から外した諸橋にとって、=LOVEで過ごす年月はその後も伸びていきました。
30歳を迎えた2026年にも、諸橋はTIFのステージへ戻っています。TIF2026ではソロステージにも立ち、その日の浴衣姿をInstagramに投稿しました。
ハワイアンズのトップダンサーに憧れた少女は、いわきで歌う場所を増やし、チャリティーアイドルを経験し、大学生になって一度は別の進路も考えました。辞退しようとした=LOVEの審査を続け、2017年夏、その名前で最初のステージに立ちました。
現在まで続く=LOVEでの活動の前に、いわきで歌い、踊り、地元のステージに立った10代の日々がありました。
































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