SPEEDのメンバーとして、力強いダンスと個性的なファッションで存在感を見せていた新垣仁絵さん。
歌やダンスだけではなく、絵を描くことも長く続けています。SPEEDのデビュー25周年では、トリビュートアルバムのジャケットや購入特典のイラストも新垣仁絵さんが描き下ろしました。
そんな新垣仁絵さんですが、子どものころから歌手やアイドルになることを目指していたわけではありません。
幼いころから好きだったのはダンス。小学生になると洋楽をカセットテープへ録音し、ファッションにも強く惹かれるようになりました。将来についてぼんやり考えていたのも、歌手ではなくデザイナーです。
小学4年生で沖縄アクターズスクールへ入ったきっかけも、自分からオーディションを探したからではありませんでした。ここから、SPEEDとして「Body & Soul」でデビューするまでをたどります。
新垣仁絵の生い立ち!沖縄でダンスが好きだった幼少期
新垣仁絵さんは1981年4月7日生まれ。沖縄で過ごした幼いころから、体を動かすことが好きでした。
後にSPEEDではダンスで強い印象を残しますが、最初からレッスンを受けていたわけではありません。家で音楽を聴きながら、好きなように踊ることが出発点でした。
ランバダを毎日のように踊っていた
幼い仁絵さんが夢中になった音楽のひとつが、当時流行していたブラジルの「ランバダ」でした。
本人は後年、ランバダを聴いて毎日のように踊っていたと振り返っています。芸能界へ入るための練習ではなく、音楽が流れると自然に体を動かしたくなる。そんな子ども時代でした。
ダンススクールへ通うより前から踊ることそのものが好きだったという話は、後の仁絵さんの姿ともつながります。
小学生で洋楽をカセットに録音していた
小学生になると、興味は海外の音楽にも広がりました。
沖縄では米軍基地から流れてくる洋楽のラジオ放送を聴くことができました。仁絵さんはラジオから聞こえてくる洋楽をカセットテープに録音し、聴くようになります。
まだインターネットも動画配信サービスもないころです。気になる曲がラジオから流れてきたら録音して残す。そうやって海外の音楽を身近なものにしていきました。
後にヒップホップやR&Bへ強く惹かれていく仁絵さんですが、洋楽との接点はすでに小学生時代にありました。
小学4年生で沖縄アクターズスクールへ
芸能界へつながる最初の出来事が起きたのは、小学4年生のころです。
仁絵さんが自分で沖縄アクターズスクールの募集を見つけたわけではありません。本人がダンスを好きなことを知っていた親戚のおばさんが、いつの間にかオーディションへ申し込んでいました。
新垣仁絵さんが沖縄アクターズスクールへ入る入口を作ったのは、親戚のおばさんでした。
仁絵さんの記憶に残っているのは、「芸能人になれるかもしれない」という興奮より、那覇へ出かける楽しさです。
本人は自分を「田舎育ち」と振り返り、おしゃれをして那覇まで片道50分ほどかけて行けることが、普段とは違ってうれしかったと話しています。
オーディションから始まったものの、この時点でも歌手になることが目標になったわけではありませんでした。
「Danceができる!好きな事ができる!」
出典:Harlem2Nippon「日本ヒップホップ・ネイション Miss Hitoe from SPEED – 2 スピードのメンバー、仁絵(Hitoe)さん Interview Part 1」(2012年11月13日)
好きなダンスをできる場所ができた。それが仁絵さんにとって、沖縄アクターズスクールへ通う一番大きな理由でした。
新垣仁絵の家族構成は?母親や兄弟、親戚とのエピソード
新垣仁絵さんは一般人である家族の詳しいプロフィールをほとんど公表していません。そのため、父親や兄弟姉妹について未確認の氏名や職業などを付け加えることはできません。
一方、本人のインタビューからは、母親の言葉が仁絵さんのファッションや自己表現に影響していたことが分かります。
母親から教わった「個性を大切にすること」
SPEED時代の仁絵さんといえば、アフロヘアやブレイズ、ほかのメンバーとは異なるファッションを思い出す人も多いでしょう。
こうした感覚はデビューしてから突然作られたものではありませんでした。
「個性を大切にすること」
出典:Harlem2Nippon「日本ヒップホップ・ネイション Miss Hitoe from SPEED – 2 スピードのメンバー、仁絵(Hitoe)さん Interview Part 1」(2012年11月13日)
仁絵さんは、母親からこう教えられていたと話しています。
小学生のころにはMTVなどで海外アーティストを見るようになり、髪を細かな三つ編みにしたスタイルで学校へ行くこともありました。
周囲と同じものを選ぶより、自分が好きだと思った髪型や服を試す。デビュー前からすでに、仁絵さんらしいスタイルがありました。
オーディションへ申し込んだのは親戚のおばさん
母親とは別に、仁絵さんの人生を大きく動かした家族・親族がいます。
小学4年生だった仁絵さんを沖縄アクターズスクールのオーディションへ申し込んだ親戚のおばさんです。
本人はそのとき、自分が芸能界へ進むことになるとは考えていませんでした。それでも、この応募がなければ沖縄アクターズスクールへ通う日々も、その先のSPEEDへの道も始まっていません。
SPEEDの島袋寛子さんは後年、新垣仁絵さんと自分について、実際の家庭でも長女だったと話しています。
グループ内でも仁絵さんは最年長でした。島袋さんによると、何かあると仁絵さんが話をまとめ、メンバーたちはダンスだけでなく、絵やファッションの感覚も尊重していたそうです。
新垣仁絵の学歴は?小学校・中学校からSPEED時代まで
新垣仁絵さんの学校生活については、具体的な小学校・中学校・高校名まで本人公式プロフィールで公表されているわけではありません。
確認できるのは、小学4年生で沖縄アクターズスクールへ入り、中学生だった1995年に東京での芸能活動が本格化し、1997年に中学校を卒業したという流れです。
小学生で那覇の沖縄アクターズスクールへ通う
沖縄アクターズスクールは、学校教育とは別に通っていた芸能養成機関です。
仁絵さんによると、当時は子どもから20歳くらいまでが所属し、歌とダンスだけでなく、演技やミュージカルなども学んでいました。
約3か月に一度は定期公演もあり、習ったことを人前で披露する機会がありました。
学校へ通いながら那覇まで移動してレッスンを受け、定期的にステージへ立つ。仁絵さんは小学生のころから、そんな生活を続けることになります。
中学生で「THE夜もヒッパレ!」への出演が始まる
生活が大きく変わったのは中学生のころでした。
SPEED公式サイトでは、1995年10月に日本テレビ系「THE夜もヒッパレ!」で本格的な活動をスタートしたと記録されています。
1981年4月生まれの仁絵さんは、このとき14歳。学校生活を送りながら東京でテレビ番組へ出演する日々が始まりました。
島袋寛子さんの証言によると、当初から完全に東京へ移ったわけではなく、1週間ほど東京へ行ったあと沖縄へ帰るという生活を繰り返した時期がありました。
「THE夜もヒッパレ!」では次々に新しい曲を覚えます。学校の勉強と仕事だけでなく、短期間で振付を頭へ入れる必要もありました。
1997年に中学校を卒業
仁絵さんが中学校を卒業したのは1997年です。
当時の写真には、中学校を卒業した仁絵さんと、小学校を卒業した島袋寛子さんを、今井絵理子さんと上原多香子さんが祝う様子が残されています。
すでにSPEEDとしてCDデビューした後の卒業でした。中学校生活の途中から、仁絵さんにとって学校と芸能活動が並行する生活になっていたことになります。
高校については、本人やSPEED公式プロフィールから具体的な学校名を確認できる公表情報がありません。学校名を推測して記載することは避けています。
沖縄アクターズスクールで育ったダンスとファッション
沖縄アクターズスクールへ通っていたころ、仁絵さんの関心は歌手になることだけに向いていたわけではありません。
ダンス、洋楽、ファッション。好きなものを自分なりに取り込みながら過ごしていました。
3か月に一度の定期公演でステージへ
沖縄アクターズスクールでは約3か月に一度、定期公演が行われていました。
生徒はレッスンを受けるだけでなく、そこで実際にステージへ立ちます。仁絵さんも子どものころから、観客の前でパフォーマンスする経験を積んでいました。
さらに、仁絵さんが興味を持っていたのが衣装です。後に紹介された当時の資料では、ファッションデザイナーを志していた仁絵さんが、定期公演で使用する衣装をデザインしていたことも伝えられています。
ステージに立つ側でありながら、そのステージで何を着るかにも目が向いていました。
TLCやジャネット・ジャクソンから受けた影響
仁絵さんが強く影響を受けたのは、海外のR&Bやヒップホップのアーティストでした。
SPEEDとして目標にしていたアーティストのひとつにTLCを挙げ、ミュージックビデオのダンスやレッスン着までまねしていたと話しています。
ジャネット・ジャクソンの映像も繰り返し見ていました。沖縄アクターズスクール在籍中には、映像を見ながら振付やステップをまねして練習していたそうです。
テレビやビデオの向こうにいる海外アーティストの髪型、服、踊り。それらを見つけるたびに、自分でも試していました。
絵やファッションを自分の表現として扱う姿勢は、後になって生まれたものではありません。少女時代から好きだったものが、そのまま長く続いています。
ダンスは得意でも振付を覚えるのは苦手だった
SPEEDではダンスの印象が強い仁絵さんですが、本人には意外な苦手分野がありました。
「振り付けを覚えるのは誰よりも苦手」
出典:Harlem2Nippon「日本ヒップホップ・ネイション Miss Hitoe from SPEED – 2 スピードのメンバー、仁絵(Hitoe)さん Interview Part 1」(2012年11月13日)
自由に踊るフリースタイルは得意でしたが、決められた振付を覚えるには人より練習しなければならなかったといいます。
「THE夜もヒッパレ!」では一週間のうちに何曲もの振付を覚えることもありました。それを毎週繰り返すうちに、少しずつ対応できるようになっていきました。
本人は番組で踊っていたころを、放課後にダンスクラスへ通うような感覚だったとも振り返っています。
新垣仁絵はなぜSPEEDへ?デビューを一度断った理由
沖縄アクターズスクールへ通い、定期公演にも出演するようになった仁絵さん。しかし、本人の将来像は歌手になることとは別の場所にありました。
SPEEDへの道が開いたときにも、そのまま迷わず芸能界へ飛び込んだわけではありません。
将来の夢は歌手ではなくデザイナー
子どものころに将来について考えた仁絵さんが思い浮かべていたのは、デザイナーでした。
「デザイナーになろうかな~」
出典:Harlem2Nippon「日本ヒップホップ・ネイション Miss Hitoe from SPEED – 2 スピードのメンバー、仁絵(Hitoe)さん Interview Part 1」(2012年11月13日)
本人は、歌手になる夢については「まったく考えていなかった」と振り返っています。
CDデビュー直後のインタビューでも、今井絵理子さんと島袋寛子さんが早くからプロを目指していた一方、新垣仁絵さんと上原多香子さんは歌とダンスが好きで、沖縄アクターズスクールには趣味に近い感覚で入ったと話していました。
「ほとんど趣味感覚で」
出典:文春オンライン「なぜSPEEDは“伝説”になったのか?」(2024年8月13日)
スクールに通っていることと、芸能界で仕事をすることは、仁絵さんの中ではまだ別の話でした。
ファッションを学ぶためデビューを断った
沖縄アクターズスクールから東京の芸能事務所へメンバーが紹介されることになり、仁絵さんにもデビューの話が届きます。
ところが仁絵さんには、地元でファッションを学ぶ予定がありました。
芸能界へのデビュー話が来ても、仁絵さんは一度「できません」と断っています。
「地元でファッションを学ぶ予定なので、デビューはできません」
出典:文春オンライン「なぜSPEEDは“伝説”になったのか?」(2024年8月13日)
アイドルになりたい少女に届いた念願のデビューではありません。自分が進もうとしていたファッションの道と、突然持ち込まれた芸能界への道。その二つの間で選択することになりました。
説得を受けて東京への道を選ぶ
仁絵さんを説得したのが、沖縄アクターズスクールを率いていたマキノ正幸さんでした。
将来ファッションの仕事をするのであれば、芸能界で優れた服やショーを見ることも勉強になる。そう説明され、仁絵さんは東京で活動する道を受け入れます。
東京のライジングプロダクションには、まず今井絵理子さんと島袋寛子さんが紹介されました。さらに候補者が推薦され、その中から新垣仁絵さんと上原多香子さんが選ばれています。
沖縄アクターズスクールで指導していた牧野アンナさんは、当時の仁絵さんについて、4人の中でも年齢が上で、一番大人びていた印象があると振り返っています。
「THE夜もヒッパレ!」からSPEED誕生へ
東京へ行くことを決めた仁絵さんは、今井絵理子さん、上原多香子さん、島袋寛子さんと4人で活動するようになります。
ただし、最初から「SPEED」という名前で活動していたわけではありません。
1995年に4人で本格的な活動を開始
SPEED公式サイトが本格活動の開始として記録しているのは、1995年10月です。
4人は日本テレビ系「THE夜もヒッパレ!」へ出演。まだ中学生だった仁絵さんにとって、ここからテレビの仕事が日常へ入り込んできます。
島袋寛子さんによると、それ以前には7人や9人ほどの子どもたちでイベントへ出演するチームがあり、その中から4人が東京へ行く形になりました。
仁絵さんは4人の中で最年長です。島袋さんは当時について、年下のメンバーを見なければという緊張を仁絵さんが抱えていたかもしれないと振り返っています。
それでも「リーダー」という肩書が置かれていたわけではありません。年齢も性格も違う4人の中で、必要なときに話をまとめる役割を仁絵さんが担っていました。
公募で「SPEED」という名前が決まる
「THE夜もヒッパレ!」へ出演し始めたころ、4人にはまだ現在まで残るグループ名がありませんでした。
番組内で名前を公募し、「SPEED」に決定します。SPEED公式の25周年企画では、1996年1月13日を「SPEEDは命名され誕生しました」としています。
小学4年生で始まった沖縄アクターズスクール、3か月に一度の定期公演、洋楽やファッションへの憧れ、そして一度は断った東京でのデビュー。その先で、4人のグループがSPEEDになりました。
テレビ番組への出演を続けた4人は、次にCDデビューへ進みます。
15歳で「Body & Soul」デビュー
1996年8月5日、SPEEDはシングル「Body & Soul」でCDデビューしました。
新垣仁絵さんは15歳。芸能界へ入ることを目標に沖縄アクターズスクールへ通い始めたわけではなかった少女が、プロとして作品を世に出すところまで来ました。
デビューで初めて感じた「責任」
SPEEDとしてデビューすることを知ったとき、仁絵さんの中には、それまでとは違う感覚が生まれました。
「責任があることだ!」
出典:Harlem2Nippon「日本ヒップホップ・ネイション Miss Hitoe from SPEED – 2 スピードのメンバー、仁絵(Hitoe)さん Interview Part 1」(2012年11月13日)
好きなダンスをすることが楽しくてスクールへ通っていたころとは、立場が変わりました。
本人は、このころから少しずつ「エンターテイナー」という言葉の意味を理解するようになったのかもしれないと振り返っています。
親戚のおばさんが申し込んだオーディションから始まり、好きなダンスを続けながら、ファッションの道にも心を向けていた新垣仁絵さん。
一度は断った芸能界への道を選び、1996年8月5日に「Body & Soul」でCDデビュー。沖縄でランバダを踊っていた少女は、SPEEDのHITOEとして最初の一歩を踏み出しました。
































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